ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

対応的同一:何がそれをあれたらしめるのか?


なぜ
北を向いた時の東側は右なのか?


昔からそう決まっているからなのだろうが
東西南北が無くても
右と左はあるように思えるのは
身体が左右対称であるからなのかもしれない


感覚的に
当たらの方に横を向いた時
それが右なら
その逆側が左側だ


右目だけでものを見る時に
瞑る目が左目だ


身体が左右対称にできているから
右側と左側と区別したくなる


5放射状の体軸のヒトデが
仮に言葉を話すとすれば
右左という言葉を話すだろうか?


腕の数だけ方向を示す言葉を話しそうな気がする


そうなれば
東西南北ではなく
腕それぞれに対応した5つの方向で
方位を名付けている可能性が高い


人間には右と左の二本の腕があるから
右と左という2方向の言葉を重宝に使っている
というわけだ


真偽はともかく
タコのように手が八本あれば
それぞれの手に名前を付けたくなるだろう
そうでなければ
それぞれの手を指し示すのに
たとえば
「右から3番目の手を動かそう」
「イヤそれは4番目だ。3番目だ」と
面倒な言い回しになる


そして
それぞれの手に名前が付けば
その手の方向が
方向をさす言葉に対応してきそうだ



北東

南東

南西
西
北西
これで8方向であるけれど
北東とか南東は
方向を直感的に意識しにくいところがあるのは
前後右左の4方向で
方向を捕えることに慣れているからだろう


人間の身体で
日常生活を送るのには
前後左右それと上と下の方向感覚が
とても重要だ


だからだろう
右前とか右後の方が
北東とか南東より分かりやすい


言葉と身体の相性の良い対応関係があって
昔から
「右」はなじみのある言葉として
君臨し続けている


そんな君臨する「右」や「前」の権威を借りながら
北を向いた時の東も堂々と
お日様の上る方向を指し示し続けている


言葉より身体のほうが
よりアプリオリな存在なのだ


言葉の世界では
身体や感情がなければ
存在しない言葉が
数知れず息づいている

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