ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

神様のイタズラガキ


(短編小説を書いてみました)


 とある未来で、一匹の猫がソファーの上で昼寝をしていた。
この猫は127歳という、ずいぶん立派な年齢を背負っていた。もちろん、本当の年齢ではない。この猫に埋め込まれているマイクロチップが、年齢を決めているらしい。
猫は、ドードルと名付けられていた。
部屋は白い壁に囲まれていて、ソファーの向かい側の壁にはカシニョールが描いた『秘密』という題名の絵画が飾られていた。この絵画のなかの秘密めいた貴婦人が見つめている先には真っ赤なドアがあった。
そのドアがバタンと開き、色白で唇の赤い少年が飛び込んできた。
「おーい。ドードル。どこに行ったの?」
少年はドードルを見つけ、
「君に手紙が届いたんだよ。」
「えーと、来月の1日に来るように、って書いてあるんだって。」
「国立研究所だって。」
少年は、父親から聞きかじり、かろうじて覚えてきた言葉を、とぎれとぎれにドードルに向かって投げかけた。
「それにね。君も明日で8歳。僕と同じ年なんだって。」
「でもなんで127歳なんだろう。お父さんは知っているのかなあ?」
少年の言葉を猫は聞いていたのだろうか、猫は、少し目を開き少年の顔を眺めたけれど、すぐにまた目を閉じ眠りについた。
「でも、なんで僕じゃなくてドードルに手紙が来たんだろう」
少年は、悔しそうにつぶやいた。少年は、まだ、手紙というものをもらったことがない。その上、国立研究所という、とても立派な所への招待なのだから尚更だった。


* * *
*   *
* * *


8年の歳月が流れ、ドードルと会話していた少年は16歳になっていた。
8年前、少年はドードルが招待された国立研究所に行きたくて仕方がなかった。だが、「まだ小さいから無理だ」と言い聞かされ、結局は連れて行ってはもらえなかった。そんなこともあり、少年にとって国立研究所は、秘密めいた憧れの場所だった。
そんな少年に、今年は晴れて国立研究所へドードルを連れて行く係が任された。少年は、有頂天で電車に乗り、大都市にある国立研究所に向かった。
少年は、今、大都会の駅に立っている。
「一体いつまで続くのだろう」
少年は、アリの巣のまわりにいるアリのように動き回る人間の群れを眺めながら、ため息交じりにつぶやいた。
「研究所の人は、ちゃんと僕のことを見つけてくれるのかなあ」
少年の目には、行き来する人がみんな同じように見えていた。田舎で暮らしていた少年は、これだけたくさんの人間がいる景色を見たことがなかった。だから、いくら個性的な衣装を身にまとい、派手な色に髪の毛を染めている人であっても、誰も彼も、みな同じ生き物にしか見えなくなっていた。
突然、
「この子がドードルかい?」
ドードルが入ったキャリーバックを覗き込み、見知らぬ男が少年に声をかけてきた。
「そうだよ。でも、どうしてわかったのですか?」
「ああ。猫を連れて待ち合わせをする人は、ここには早々いないからねえ」
「国立研究所の方ですか?」
少年は、あえて確認した。
「ああ。普段は研究をしているのだけれど、教授に君のことを迎えに行くように言われちゃって、こうしてやってきたというわけさ」
研究者だというその男は、言うが早いか、右手を東に向けながら、
「研究所は、あっちだ。教授が首を長くしている。急ごう」
そして、急ぎ足で東に向かって歩き始めた。少年も、急ぎ足で後に続いた。少年には、確かめたいことがあった。


継続していることだけが、時間を超えてゆく。
当たり前のように、この8年間、少年は少年本人であり続けた。でも、ドードルは違っていた。
今日連れてきたドードルは、8歳の時まで一緒に過ごしたドードルではなかった。8年前にドードルはいなくなり、その代わりに、それまでのドードルとそっくりな子猫がやってき来た。今日連れてきたのは、その新しい方のドードルだ。
少年はドードルとそっくりな子猫に、やはりドードルと名付けた。子猫を見た瞬間、ドードル以外の名前を付けようという考えはすっかり消えてなくなったのだ。それほどにドードルは、ドードルそっくりだった。そして、年齢も引き継がれた。
今やドードルは136歳の立派な猫になった。はるか昔から、ドードルはこのようにして、たくさんの年齢を重ねて来たのだろう。


研究所の敷地に庭はなく、アスファルトの道路から直接、垂直のコンクリートの建物が建っていた。そんな国立研究所の玄関を、少年と研究員は急ぎ足のまま入っていった。
研究所の玄関を入ると、小さなホールがあり、警備員が控えていた。
研究員は、手慣れた手つきで、首に下げた札を警備員に提示して、セキュリティーチェックを受けた。そして、少年に向かって、
「招待状は持ってきたかい?」
と尋ねた。
少年は、
「はい。ここにあります」
と答え、招待状を警備員に手渡した。
招待状を受け取った警備員は、その内容を確認しながらセキュリティーの機械をドードルの入っているキャリーケースに押し当てて、機械の反応を確認するなり、
「こちらへどうぞ。教授がお待ちです」
と、階段の方へ誘導してくれた。
薄暗い階段を3階まで上り、教授の部屋にたどり着いた。
研究員の男がノックをすると、
「どうぞ」
と、教授らしき男の声がした。
「やあ、こんにちは」
「は は はじめまして」
部屋の中には、立派な面持ちの教授が待ちかまえていて、簡単なあいさつを交わすや否や、いきなり少年に質問を浴びせかけてきた。
「君は、どうして名前を付けるのか知っているかい?」
この唐突な質問に、少年は、しばらく何の答えも思いつかなかった。教授は、そのことを予定していたかのように、じっと少年の顔を眺めながら、
「君の猫にも名前があるだろう。どうして名前を付けたのかね?」
と、もう一度、質問を繰り返した。
少年は、戸惑いながらも考えていた。
――教授と呼ばれるからには偉い先生なのだろう。下手な答えはできない。でも、なんて答えよう――
教授も、そんな少年の反応を理解しているようで、ゆっくりと少年の口が開くのを待っていた。
しばらくしてから、意を決した少年は、
「名前を呼ぶためです。」
と声を出した。
「ほう。そうか。なかなか良い答えだ。それで、ただ名前を呼ぶために名前を付けるということなのかな?」
少年は、少し落ち着いた面持ちになり、
「いいえ。それだけではありません。名前を呼ばれたら返事をします。」
と、今度はすぐに答えることができた。でも、これが失敗だった。
「そうか。うむ。名前を呼び、それに返事をするために名前を付けるということになるのかな。まあいいだろう」
「ところで、その猫の名前は何といったかな?」
「ドードルです」
「ほう、ドードルか。ああ、そうだった。いい名前だ」
「それで、その猫も名前を呼べば、ちゃんと答えてくれるのかな?」
少年は、――しまった。猫は返事なんか滅多にしないよ――と思いながらも、言葉を飲み込んだ。少年は、ろくに考えもせずに答えてしまったことを後悔した。そして、なんて言い抜けしようかと頭を巡らせていた。
そんな少年の気持ちをわかっているのか、教授は、この会話を打ち切り、
「君、例の部屋に案内してくれたまえ。」
と、研究員に命じて、自分は隣の部屋へ行ってしまった。
少年は、聞きたいことを抱えてこの場所にやってきた。けれど、まだ何も聞けずにいる。それどころか、まんまとやり込められてしまった。そんなもどかしさにグズグズしていると、研究員は、さっさとドードルの入ったキャリーバックを持ち上げて、
「さあ、こっちだ」
と少年を手招きした。
薄暗い廊下を歩いた先には「第2研究室」という古い表札のかかった研究室があった。二人はそこへ入った。
そして、その部屋に入るなり、少年は思わず叫び声をあげた。
「えーーー。なに!なに!」
叫びたくなるはずである。その部屋には。軽く100匹は超えるドードル、正確に言えばドードルそっくりな猫たちが、部屋のあちらこちらに散乱していた。
そんな少年を傍目に、研究員は少年のドードルをキャリーバックから取り出すと、何の躊躇もなくその部屋に放り出した。
「あーーーーー。あーー」
少年は、他のドードルと混ぜこぜになってしまう前に、ドードルを捕まえようとするのだが遅かった。
放り出されたドードルは、猛スピードで駆け出した。すると、昼寝や毛づくろいをしていた猫たちも次から次へと騒ぎ始めて、どの猫が本物のドードルなのか、すっかりわからなくなってしまった。
「名前を呼んでみたら如何かな?」
いつの間にか、教授が後ろに立っていた。
「ドードル。ドードル。こっちへおいで」
少年は、仕方なくドードルを呼んでみた。
ほとんどの猫は、騒ぎ続けていた。仕方なく、猫たちの様子が少し落ち着いたころを見計い、もう一度、
「ドードル、こっちへおいで」
と呼んでみた。
この声は、ほとんどの猫に無視された。でも、一匹の猫が少年の方に歩み寄って来てくれた。少年は喜んで、
「ドードルかい?僕がわかるかい?」
と言いながら、その猫に向かって両手を伸ばした。
すると、その猫以外にも5、6匹の猫が同じように少年のもとにやってきて、差し出した手や腕に顔を押し付けてきた。やはり、どの猫が少年のドードルなのかわからない。
振り向くと、教授がおどけた表情で両手を広げて困ったような仕草をしてみせていた。
「名前を付けるということは、残念だけれど、返事をするためではないのだよ。名付けた人が、特別扱いしたいから名前を勝手に付けているのが本当のところなんだ」
教授は、さらに続けた。
「特別扱いすると、不平等が生まれてくる。不平等はよくないことだね。じゃあ、平等ならうまくいくというかというと、そうもいかない。だから特別扱いはなくならないし、不平等もなくならない。名前はおろか、氏や民族、国や地方の名称も早々なくなりはしない。同じであることも、互いに違っていることも、それぞれ大切な役割を担っているからだよ」
少年は、すっかり教授のペースにはまり込んでいた。
――ああ、確かに教授の言う通り、ドードルを特別扱いするために名前をつけたんだ。でも、もう特別扱いもできなくなってしまった。じゃあ、名前なんてもういらないってこと?ドードルの名前を残しておきたい。そう、ぼくは、まだ、ドードルを特別扱いしたいから名前にこだわっているんだ――
少年は、黙ったまま、たくさんのドードルを眺めていた。
「君はもう、ここにいる猫はみんなクローンだとわかっているよね?」
突然発せられた教授の声に、少年は黙ったままうなずいた。今となっては、この聞くまでもない当たり前のことを、少年は確かめたくてここに来たのだ。そのことを知ってか知らずか、教授は続けた。
「クローンだけれど、みんな少しずつ違っている。生まれた時が違うから体格も違うし、性格や体の模様も、よくよく観察していると、少しずつ違いがある。この研究所では、特別扱いしないように、名前を付けていないことになっている。代わりにマイクロチップを体に埋め込んでいる。だから、本当のことを言ってしまえば、君の連れてきた猫をすぐにでも探せるのだけれど・・・」
少年は、振り返って真正面から教授の顔を見た。でも、その顔のどこにも「ドードルを教えあげる」とは書いてなかった。


教授室に戻り、少年はたくさんの話を聞かせてもらった。この研究所では、許可をもらってクローン猫の研究をしていること。許可の条件としてクローン猫は子供を産めないこと。クローン猫をいろいろな環境で育てる協力者がいること。少年もその一人であること。他にもたくさんのことを教えてもらった。
「ドードルと言ったね。いい名前だ。“イタズラガキ”っていう意味だね。もし神様がいたら、生き物はみんな神様のイタズラガキかもしれないなあ。そうそう。明日、君の元に新しい小さなドードルが届くだろう。また、可愛がってくれるかな?」
少年が戸惑っていると、
「もちろん、君のドードルは、この研究所で大事に育てる。だから、新しい子猫をお願いしてもいいだろうか?」
「もちろんです」
「では、また8年後に」


* *


翌朝、「ピンポーン」と玄関のチャイムが鳴った。
待ち構えていたかのように少年が玄関を開けると、子猫を抱えた少女が立っていた。少年は少女から子猫を受け取るなり、丁寧に「ありがとう」と言い、お辞儀をした。そして父母が待つリビングに一目散に戻りながら、叫んだ。
「ほら、ドードルが戻ってきたよ。教授はちゃんと約束を守ってくれたんだ。ほら、見て、本当に前のドードルそっくりだ」
その日を境に、少年は勉強に勤しんだ。学ばなければならないことが、急にたくさん増えたのだ。


* * *
*   *
* * *
24歳の青年が、国立研究所の前に立っていた。
「今回は、教授にやりこまれないぞ」
青年は、意を決したように言うと、精悍な顔をよりいっそう引き締めた。
16歳の時に、この研究所に来た少年は、もう立派な青年になっていた。
青年は、玄関を入ると、ホールで警備員に招待状を見せた。そして、8年前と同じようにキャリーバックに入ったドードルがセキュリティーチェックを受けた。それから青年は、教授の部屋がある3階に上って、教授室をノックした。
教授は、部屋にいた。
「今回の猫はどうでしたか?いや、まあ、前の猫と同じとか違うとか」
簡単なあいさつを交わす否や、またしても教授は青年に質問を浴びせた。
――なあんだ、今回は答えやすい質問だ――と、青年は思いながらも慎重に、
「大体同じですが、今回の猫の方が今までの猫より落ち着いているように感じます」
「そうか」
「それに、身じろぎの仕方とか、髭の動かし方だとか、撫でた時の反応とか、表現するのはちょっと難しいのですが、今までの猫とはちょっと違う個性があるような気がします。育ちの問題なのでしょうか?」
「育ちのこともあるだろうが、発生過程での微妙なズレがあるのかもしれない。これはね、中枢神経系の発生にかかわる難しい問題なのだよ」
「教授は、そういうことを研究されているのですか?」
「ああ。そういったことも研究している。ところで君は、クローンについて、どう考えているのかな?」
「はい。8年前にドードルがクローンだと知ってから、僕もあれこれと勉強しました。あの時、教授は、『生き物は、神様のイタズラガキ』とおっしゃいました。僕にもだんだんその意味がわかってきました」
「ほう」
「神様も、本当は、全く同じ個体、そうクローンをたくさん創造しているつもりでいるのではないでしょうか。でも、いくら神様とはいえ、手作りだから、どうしてもちょっとずつ違う個性が出てきてしまう。イタズラガキも、同じように書こうとしても、どうしてもちょっとずつ違ってしまいます。だから、教授は、『生き物は、神様のイタズラガキ』とおっしゃったのではないですか?」
「ほう。なかなか面白い」
「そもそも、生き物は、それぞれの種毎に同じ遺伝子プールを共有しているクローンです」
「ほう。野山で生きている生き物たちも、みんなクローンということかね」
「そうです。同じ種類の昆虫なら、みんな同じクローンのようです。僕がドードルに名前を付けたように、アリに名前を付けても、そのアリが他のアリと混じってしまえば区別をつけられなくなってしまいます。当然、特別扱いできません。昆虫になったことがないからわかりませんが、昆虫から見れば、人間もみんなクローンなのかもしれません」
「ははは。昆虫になったことがない。確かにそうだ。いやいや、失礼、失礼」
教授が上機嫌に笑っているので、青年も笑ってみせた。
「どうやら君は、私が色々説明しなくても、たくさんのことを理解して来てくれたらしい。いやいや、素晴らしい」
少年は誇らしげに顔を硬直させた。
「あの絵を見てごらん」
教授が指し示す先には、カシニョールが描いた貴婦人の絵画があった。青年の家にもある絵画がここにもあったのだ。
「今は、絵の複製技術も進歩して、どれもこれも本物と寸分の狂いもない。もう本物と言っても良いくらいの出来栄えだ。これは、同じものを創る技術の問題だ。だが、そんなことより大事なことは、それを見る人が何を感じるか、ということだ。見る人、見る時、見る場所により、同じ絵から違う感情を汲み上げる。これと同じように、たくさんのクローン生物も、それぞれの置かれた立場で違う反応をする。それが命の尊厳というものだよ」
少年は、うなずきながら、自分の家にあるその絵画を思い出し、
――それにしても、なんでここにも同じ絵があるのだろう。偶然なのか。それとも、何か理由があるのだろうか?――
そんな少年の考えを、あえて遮断するかのように、教授は続けた。
「この絵画には『秘密』という題名がついているのを知っているかい?」
「いいえ。『秘密』・・・知りませんでした」
「君には、説明の必要もないかもしれないが、生命にはたくさんの秘密が隠されている。人類がまだ知らぬ秘密がね」
「はい。そのとおりだと思います」
青年は、この8年間、命について様々な勉強をしてきた。そして、勉強すればするほど、知らないことばかりだと思い知らされてきた。
「君は、自分の身体のことをわかったつもりでいるけれど、自分の身体をちっともわかっていない」
言われれば、確かにそのとおりだ。
「君は、たくさんのクローン細胞からできている。そんな細胞たちは、同じもの同士で争うこともあるのだろうが、基本的には分業して助け合い君の身体を機能させている。同じ情報を共有しながら、違う機能を発揮しあうから、うまく調和している」
教授は続けた。
「8年前、名前を付けるということは特別扱いすることだ、という話をしたけれど、覚えているかい?」
「はい。覚えています」
少年だった青年は、この質問で教授にやり込められた。
「どうだろう、君は、君の身体を作る細胞たちに、ちゃんと名前を付けているかな?」
教授は続けた。
「意識は、色々な存在に名前を付けたがる。でも、全ての存在に名前を付けるかというと、そうでもない。一つ一つの自分の細胞には名前を付けようともしない。その一方、意識は率先して自分に「自分」という名前を喜んで付けている。意識はとてもわがままなのだろう。だから、「自分」をとても特別扱いしたいのだ。君は、人間もみんなクローンだという話をしたね。人間は、みんな大体同じなのに、意識がしっかり「自分」を名付けるものだから、『自分はみんなとは違う』と思っている。」
「はい」
「でも、同じだからこそ協調しあえていることを、決して忘れてはいけないことだ。」
「はい。同じ存在同士でなければ協調する意思疎通が難しいということでしょうか?」
「そうだ。そのとおりだ。少し話しを整理してみようか」
「はい」
「生物にしても、絵画にしても、君の身体の細胞にしても、同じ存在がたくさん増殖している」
「はい。」
「その同じ存在が、互いに異なった反応を引き出し合い助け合い、調和を形成している」
「はい。世界は、クローンが増殖してできた調和世界ということですね」
「ああ、君の身体もそうだけれど、そればかりではない。人間社会も同じだ。君のことだから、ちょっと考えればすぐにわかるだろう。挨拶ひとつにしても、お互いに同じ言語圏で生活していないと、チグハグな事になってしまう。言葉の世界や、法律の世界、それに宗教の世界も、同じ情報を共有しているからこそ、うまく調和して機能している。それぞれの世界に標準的なクローン情報があって、これを、それぞれの意識が汲み取っているから社会がうまく回っているのだよ。」
「はい。僕ら人類は、たくさんのクローン情報の元となるプールを持っている、ということですね」
「そうだ。そんなたくさんのプールを、君は一つにできると思うかね?」
「できないと思います。情報が交じり合うと、絵の具の色が混ざるように汚くなってしまいます」
「そうだ。そのとおりだ。だから、プールはクローンのように均一なほうがいい。でも、実際には混じってしまう」
「それに、人間の意識は面白いもので、自分を『自分』と特別扱いして自分という小さなプールを独り占めしたがるのだけれど、みんなで共有するプールは大きくて、すべてを包含している方が良いと考えたがる。そんな考えが育ててきたとても大きなプールがあるのだけれど、君にはわかるかな?人間も、動物も、植物も、言葉も、法律も、宗教もすべてが収まっている大きなプール」
青年は、ゆっくりと答えた。
「神様のプールです」
と答えた。
「そうだ、神様のプールだ。そのプールから汲み出された情報から、いろいろなイタズラガキが創造されてくる。」
「生き物は神様のイタズラガキ。ドードルのようなクローンも、元を質せば、神様のプールから汲み出された生き物ということですね」
そう青年が呼応すると、
「ああ、そのとおりだ」
その後、教授は、しばらく黙って考えている様子だった。そして
「そろそろ、本題に入ってもいいだろうか。つらい話になるかもしれないが、いいかな。」
今までとは少し違った張りのある低い声で、再び、話し始めた。
「今日、私は君に、秘密にしてきたことを話さなければならない」
「秘密?」
「君はクローン。残念だが、子供はできない。でも安心してほしい。8年後、子猫のドードルと一緒に、あなたに赤ちゃんを授けたい。引き受けてくれるかな?」
青年は、戸惑いを隠せなかった。
――クローンも立派な生き物。確かに。でも・・・実験室で作られたクローン・・・それに子供?赤ちゃん?――
今まで、考えたこともなかったことばかりだった。
 「お話は、わかりましたが、・・・。時間をください」
青年は、小さな声でしゃべり終わると、教授室を後にした。


* *


青年は眠れない夜を過ごし、朝を迎えた
一人、薄汚れたカップから冷め切ったコーヒーをすすり、
「まあ、いいさ」
と、自虐的につぶやいた。
色々なことを勉強し、様々な経験をしてきた。そんな諸々を「自分」のものとしてきちんと整理してきた。そうして長年、順調に積み上げてきた「自分」を、昨日、教授に混ぜこぜにされてしまった。
――僕はクローン。大切にしてきた「自分」は複製品――
未だに、逃げ場のない思いが右往左往を繰り返している。


「ピンポーン」
「ピンッポーン」


誰にも会いたくない気分のまま、青年はドアフォンに向かって、
「どなたですか?」
と、声を絞り出した。
「子猫を届けに来ました」
女性の声だった。
――忘れていた。ドードルだ!――
「今、行きます」
青年は、急いで玄関に向かった。仲間が来たのだ。
玄関では、少女が子猫を抱えていた。
「ありがとう」
青年は、丁寧にお礼を言うと、待ちきれないとばかりに子猫を受け取ろうとした。
ところが、ドードルときたら新しい飼い主を全く知らない。必死に抵抗し、女性の白いカーディガンにあどけない小さな爪を立てていた。こうなっていては無理やり奪い取る訳にはいかない。
「あら、まだ行きたくないようね」
女性は子猫に自分の鼻を近づけながら、少し嬉しそうに子猫に語りかけた。
「どうやらそのようだね」
残念そうに青年はつぶやきながら、女性の目を見て、目を見開いた。
女性は、カシニョールが描いたあの貴婦人とそっくりだった。それに、青年がこの絵画の貴婦人は母親がモデルじゃないかと思うほど、青年の母親もこの貴婦人にそっくりだった。
様々な思いが交錯する中で、青年は、
「あなたも国立研究所をご存知ですか?」
と、口走った。
この唐突な質問に驚いたのか、女性は黙ってうつむいていたが、しばらくすると顔を上げ、堰を切ったように強い口調でしゃべり始めた。
「ええ。つい先日行ったばかりですわ。この子を迎えに行ってきましたの・・・」
「それに・・・ちょっと、いいですか。あなたは全然覚えていらっしゃらないのですか?そうですよね。わたくし、8年前にもあなたと、ここで、このように会っていますのよ。やっぱり、そうなのね。全然覚えていらっしゃらないのですね。その時も、わたしはあなたに生まれたばかりの・・・・・」


とある未来で、青年と女性がソファーに座っていた。
二人の足元には、まだあどけないドードルがいた。
人生には、いくつかの大きな駅があり、人や荷物が入り乱れ出発の準備に追われている。旅は始めるようでいて、実は知らないうちに始まっているものらしい。だから、動き始めた列車の中で、乗客は大慌てで狼狽したり、歓喜したりする。


それもこれも、神様のプールに仕込まれているイタズラなのか?


二人には話さなければならないことがたくさんあった。今までのこと。未来のこと。そして8年後のこと。
白い壁にはカシニョールの『秘密』が掛けられ、テーブルには二つのコーヒーカップが並んでいた。青年の父と母が、とても大事に愛用していた年代物のコーヒーカップだ。


おわり

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