ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

記憶と実践:実践されない局面でも記憶は残る


様々な社会が
様々な記憶を未来へと運んでいる


神の記憶も
未来へと運ばれている


理想としての記憶は
実践されなくても
理想として語り継がれてゆく


こうした後天的記憶の外に
人間には
先天的な記憶がある


生命としての記憶である


この生命としての記憶が
理想の記憶を汚しながら
実践を繰り返している


そしてまた
その逆に
生命の記憶を汚しながら
理想の記憶が実践を繰り返している


何を汚し
何を実践するのか?


葛藤を繰り返しながら
互いに切磋琢磨しながら
それぞれに
記憶を未来へと運んでいる


実践されずとも記憶は残る


死んだ人の魂もまた
記憶としてよみがえる

記憶と実践:記憶による世界の構築


物質は
物質としての外
記憶としても残存している


ステンレスのネジの記憶は
ステンレスではない


ネジでもない


記憶である


しかし
その記憶は
ステンレスを語り
ネジをも語る


記憶は
記憶そのものの存在の外に
記憶の対象をも存在させている


鏡が
鏡として存在すると同時に
鏡像を映しているのと相似している


鏡に映った私が私そのものではないように
記憶のステンレスのネジは
ステンレスのネジそのものではない


それでも
私と私の鏡像には相関関係があり
ネジとネジの記憶にも相関関係がある


そして
鏡の数だけ私の胸像が存在するように
記憶の数だけネジの記憶も存在し得ることになる


生命としてのカエルの記憶であるDNAの数だけ
カエルの記憶は出来上がり
見た人の数だけ
とある光景の記憶が存在し得ることになり
入力された拡散された数だけ
コンピューターチップに記憶が残されてゆく


形相や形質は記憶装置によりさまざまでありながら
その対象とは異なる形相や形質に変換され
装置と対象の間に
一定の相関関係が維持されている


実体の記憶化と
その記憶を実体として再現が
この相関関係の中で実践されている


一の対象から多の記憶が形成され
一の記憶から多の実践が繰り返されることにより
記憶に基づく世界が構築されている


記憶を維持している
流転しにくい形質と形相により
流転してゆく対象の相関を維持しているのである


記憶としての存在は
この相関において存在してる


「である」
あるいは「であるべきである」などの
何らかの力の相関の強制により
碑文もただの意思ではない世界を語っている

記憶と実践:流転に抗う記憶たち


記憶が留まり続けていることに
感謝しなければならない


歯ブラシの使い方を忘れると
歯ブラシを見ても何に使うものかわからないだろう


横断歩道の渡り方を忘れてしまえば
車の往来する道路を
猫のように走り抜けようとするのかもしれない


100万円の束が落ちていても
それを拾おうとも思わないかもしれない


昨日とは違う今日になり
昨年とは違う今年になっても
記憶が
同じように歯ブラシを使い
横断歩道を渡り
お金を欲しがるようにしてくれている


記憶喪失の人や
認知症が進んだ方とは
話がかみ合わないと聞く


逆に
何十年もあっていない子供の頃の友人と
ばったり再開すると
昔の話で盛り上がったりする
そして
すっかり変わってしまった外見を棚に置き
「ちっとも変ったないなあ」などと
笑いあったりする


万物が流転する中で
記憶が維持されているのである


ありがたいことである


この記憶の維持により
記憶に基づいた実践が繰り返される


すると
秩序も維持される


だから
法律を覚えられない猫には
法秩序を作ることが出来ない


しかしながら
いわゆる自然の掟に従い
食べ子を産み育て
猫の秩序を後世に伝えてゆく記憶は持ち合わせている


生み落とされた卵のほとんどは
カエルにまで成長しないにもかかわらず
それぞれの卵が
それぞれの記憶に従い成長し
万が一成熟したカエルになると
卵を産み記憶を後世に伝えてゆく


こうして
万物が流転する中で
記憶が維持されてゆく


私も
流転に抗う記憶である


若き頃の記憶をたどり
老いてゆく肉体を抗おうと
ストレッチをしてみたり
運動してみたりと
記憶に翻弄されている


いずれは寿命が尽き
朽ちてゆくのだろう肉体を
その秩序を維持しようと
懸命に実践を繰り返している


リチャードドーキンス博士が言うように
生命は記憶を運ぶ船なのである


流転する荒海を航海し
どこへ向かうともなく漂流する船なのだろう