ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

組織と個人:組織的「善」の凄惨


個人が
自分の利益ばかりを追求すると
わがままと言われるけれど
組織が
自分の利益ばかりを追求しても
組織の内部から
わがままと言われることはない


だから
組織の中に染まりきってしまうと
組織のわがままを
何の批判もなく実行してしまう


躊躇があっても
組織を批判しないことを「善」とする空気に
その躊躇を押し殺してしまう


心理学の一環として行われた
アイヒマンテストは
この「善」の空気の実存を示すものである


組織の「善」に従うのであれば
どんな残虐な行為も肯定されてしまう


ナチスによるユダヤ人迫害


戦場での殺戮


いじめ


残忍な行為に参加しないことの方が
「悪」として処罰されかねなのだから
残忍さを
為す方も
為される方も凄惨である


人類の歴史は
このような凄惨の歴史でもある


このような歴史を生き延びて来た私にも
この生産をもたらす心が備わっていることを
決して忘れてはならないだろう

組織と個人:組織は心のないサイコパス


善悪には相対的なところがある


自社の売上増は「善」であり
ライバル社の売上増は「悪」であるところがある


自社の新技術開発は「善」であり
ライバル社の新技術開発は「悪」という具合である


好き嫌いにも相対的なところがあり
自分の取り分が多いと嬉しくて「好き」ということになり
自分の取り分が少ないと悲しくて「嫌い」ということになる


二人でをかけそばを分け合う時
自分の取り分が多いと「好き」となり
相手の取り分を多くするのは「善」ということになる


自分ではなく
会社のためになることが「善」なのである


自分ではなく
かけそばを分けある人のためになることが「善」である


個人の中に
自然と湧き上がる「善」なら良いのであるが
「滅私奉公」のように
押し付けられる「善」は
個人を圧迫する事態を招くことがある


悪事に加担した政治家の秘書の自殺


悪事を為し
そのことで良心の呵責に耐えかねた官僚の自殺


原作を捻じ曲げられ
それに抗うことを
「善」として受け入れられなかった漫画家の自殺


組織は
多人数が少しづ罪を分け合い
大きな罪を犯す


その罪を一身に浴びた個人は
たまったものではない


こうした罪が組織の「善」の元に行われると
正義の人が罪を犯すことになるのだからたまらない


戦場の戦士は
正義の旗の元に敵を殺す


正義の旗が旗がかかげる「善」に抗えば
不運な秘書や官僚や漫画家のように
四面楚歌に陥ることになる


「善」には相対的なところがある


絶対的で普遍な「善」に支配されないような
自制心を伴う組織とは離れた自律が求められるところである


個人の好き嫌いには組織の善悪が容易に入り込むのに
組織の善悪には個人の思いがなかなか反映できない


組織は
心のないサイコパスに陥りやすい


だから
組織を最優先し
他の組織や個人をないがしろにしてしまう


休日は
組織から離れ
このことを思い出してもらいたいものである


得難いことなのだろうけれど
ことに
組織の重鎮にはお願いできればありがたい

組織と個人:戦闘とモラハラと21世紀のルネッサンス


戦闘を「好き」でしている人は
そう多くはいないだろう


戦闘のシュミレーションゲームが流行るのだから
戦闘が「好き」な人はいるのだろうけれど
実際の戦場で
命を懸けて戦うとなると
戦闘シュミレーターも二の足を踏むだろう



私は思っている


私は
死ぬのは「嫌い」で

死ぬのは嫌だと思っているからである


人を殺すのも嫌なことである


だから
なおさらに
戦場で戦闘をしたいと思う人は
いないのではないか
と思っている


それでも
実際に戦場でたくさんの人が闘い
負傷し命を削り合っているのは
大義のために戦うことが「善」であるからに相違ない


そして
戦闘の相手は「悪」である


「悪」を倒すことは「善」であるから
相手が「悪」であることにより
なおさらに「善」の意識をもって
戦闘を行えることになる


さらに
「仲間」を殺されたという恨みも
戦闘行為を「善」なるものにしてゆく


こう考えてくると
「善」のイデアというものがあると
これは麻薬に違いないと思えてくる


麻薬は人間を狂わせる


だから使用しないように取り締まるべきなのであろうが
取り締まるべき社会が
戦争という麻薬をまき散らしたりするから
麻薬が蔓延してゆくことになる


「善」は麻薬である


西田幾多郎先生は
心の奥底に「善」が備わっているという


確かにそうかもしれない


しかし
社会のためになる「善」ばかりを刺激しては危険である


個人が生きるための「好き「嫌い」を無視して
「善」ばかりを強調するのは
社会が生き延びる手段であり
個人のためにはならないことを
肝にも銘じておかなければならない


と私は思う


「善」を押し付ける
モラルハラスメントが嫌われるのは
この辺に理由がある


このような思考軸において
モラハラの主張は
21世紀のルネッサンスということができるだろう


組織からの
人間復興である