ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

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組織と個人:戦闘とモラハラと21世紀のルネッサンス


戦闘を「好き」でしている人は
そう多くはいないだろう


戦闘のシュミレーションゲームが流行るのだから
戦闘が「好き」な人はいるのだろうけれど
実際の戦場で
命を懸けて戦うとなると
戦闘シュミレーターも二の足を踏むだろう



私は思っている


私は
死ぬのは「嫌い」で

死ぬのは嫌だと思っているからである


人を殺すのも嫌なことである


だから
なおさらに
戦場で戦闘をしたいと思う人は
いないのではないか
と思っている


それでも
実際に戦場でたくさんの人が闘い
負傷し命を削り合っているのは
大義のために戦うことが「善」であるからに相違ない


そして
戦闘の相手は「悪」である


「悪」を倒すことは「善」であるから
相手が「悪」であることにより
なおさらに「善」の意識をもって
戦闘を行えることになる


さらに
「仲間」を殺されたという恨みも
戦闘行為を「善」なるものにしてゆく


こう考えてくると
「善」のイデアというものがあると
これは麻薬に違いないと思えてくる


麻薬は人間を狂わせる


だから使用しないように取り締まるべきなのであろうが
取り締まるべき社会が
戦争という麻薬をまき散らしたりするから
麻薬が蔓延してゆくことになる


「善」は麻薬である


西田幾多郎先生は
心の奥底に「善」が備わっているという


確かにそうかもしれない


しかし
社会のためになる「善」ばかりを刺激しては危険である


個人が生きるための「好き「嫌い」を無視して
「善」ばかりを強調するのは
社会が生き延びる手段であり
個人のためにはならないことを
肝にも銘じておかなければならない


と私は思う


「善」を押し付ける
モラルハラスメントが嫌われるのは
この辺に理由がある


このような思考軸において
モラハラの主張は
21世紀のルネッサンスということができるだろう


組織からの
人間復興である

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