ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

思考と実体:思想統一という信頼性向上


よくもまあ
こんなにたくさんの車が道路に溢れているのに
車同士ぶつからないものだと
感心してしまう


たまに
道路を逆走して
ぶつかった車があるというニュースを見るが
そんな車は
極めてまれな例外に過ぎない


だから
安心して車を運転することが出来ている


仮に1%でも
車が逆走しているとすれば
毎日事故にあわなければならないだろう


0.1%でも
毎日どこかしらで事故現場を見ることになり
そのためにひどく渋滞することになるだろう


誰もが皆
例外なく車を逆走させてはいけないと
考えている


この思想統一により
交通網への信頼性は維持されている
と言えるだろう


思想統一というと
大袈裟かもしれないが
車を運転する者は皆すべて
自分と同じように
交通法規を守らなければならないと考え
交通法規を理解し覚えていると信じて
車を運転している


状況に応じ
自分と同じように考え
自分と同じように反応すると信じて
車を運転している


左側通行の道路では
車はことごとく左側を通り
右側通行の道路では
車はことごとく右側を通るものと信じて
車を運転している


思想統一されていると
信じて
車を運転しているのである


右側の思想の集会では
ことごとく右側の思想を披露し
左側の思想の集会では
ことごとく左側の思想を披露すると信じて
言論を展開している


そうすれば
ぶつからなくて良いのである


皆がぶつかりたくないと考えていれば良いのであるが
ぶつかりたい者が現れると秩序が混乱してしまう


車のぶつかるのと違い
思考がぶつかるのは
忘れればそれまでなので
すぐに秩序も回復することもできるのだろうが
根に持つようなぶつかり方をすると
たちが悪い


ぶつかった車は直せばまた元に戻るのだけれど
思想のぶつかり合いだと
直そうとするとまたぶつかることになる


そこで直せないままに
そのままに
そっとしておくことになりかねない


ここに多様性が生まれる


思想統一による社会の信頼性向上は低下するが
ぶつかり合いに伴う混乱よりも
マシということなのだろう


こうした背景もあり
人間関係に適切な距離を取ることになる


すれ違う車との距離は
スピードを出している時ほど広く取りたくなるように
思想のベクトルが反対方向に強く向いている人とは
大きく距離を取る


思想などは
実体の中で生まれては消えしている雲のようなものだからと
実体はこの距離感を許容してくれるだろう


生ぬるい思想もこの距離感を許すのだろうが
唯一絶対を標榜する偉大なる思想は
この距離感を許さずに
他の思想を圧迫して思想統一しようとするから
実体が許す距離感をも押しつぶそうとする


こうなると
車を逆走させることもいとわなくなるから
恐ろしい

思考と実体:知覚と時空についての論考


冬場の空気の乾燥のせいなのか
皮膚が痒くなる


痒くなるから掻くと
ますます痒くなり
血が滲むまで搔きむしってしまうこともある


痒くても我慢しなければならないと
頭でわかっていても
掻くと気持ちが良いのだから厄介である


さて
人の痒いのはわからないけれど
自分の痒いのはよくわかる


しかも
何処が痒いかもよくわかる


痒いということには
もれなく場所というものがついて回ってくるらしい


さっきまではあそこが痒かったけれど
今はここが痒いということもよくあることで
時間も痒いについて回っているようである


痒くない場所や時間もたくさんあるから
広大な時空の一か所で痒いが発生しているようである


しかも内臓が痒いということがない


内臓は掻けないから
内臓が痒くならないのはありがたいことなのだけれど
掻くことが出来る皮膚が痒いから
思考にとっては
これが一大事となる


「掻くべきか?
 掻かぬべきか?」と悩まされるのである


広大な時空の本の片隅の些細な出来事に
思考の全ての領域を使い
懸命に
「ああでもない
 こうでもない」とつぶやいている思考というものは
どこか滑稽なところがある


かくして
大したこともないことに
思索を巡りつづけることは
思考世界ではよくあることで
それを楽しむのは
娯楽として好ましいことであるけれど
悩み苦しむということになると
早々に切り上げるのが得策ということになるのであろう


さておき
痒いと知覚していることと
痒かったと覚えていることとは
どこがどう違うのだろう?


知覚と記憶の違いの起源の問題である


「今」がついて回るのが知覚で
「今」が離れてしまったのが記憶ということでよいのだろうか?


であるとすれば
このような機能を持つ「今」をつけたり外しているのは
私であり
知覚と記憶を区別しているのも私ということになる


知覚も記憶も
人様にはわからない私専属の出来事なので
これらを区別しているのも私というのは
至極当然のことなのだろう


しかし
この区別している私を
私には意識できないでいるから不思議である


心臓が動いているのと同じで
そういう仕掛けがあると言えばそれまでではあるけれど
私の意識が
私の知らないところにより動かされているというのは
なんともけしからないことである


けしからないことだけれど
生きていることも
意識と変わらず同じように
わたしの預かり知らないところで動いているのだから
至極当然なこととして受け止めなければならぬのだろう

思考と実体:思考の逃走と思考の闘争


雪道でスリップを起こし
対向車にぶつかってしまったことがある


雪道なので
互いに
ゆっくりと走っていたので大事にはならなかったのだが
ブレーキもハンドルも利かない状態で
数秒間滑り
ゴツンとぶつかり停車した


この数秒間
突然
世界はスローモーションのように動いていた


何も考えられず
何もすることもできないまま
ただぶつかる映像を
ゆっくりと眺めていた


思考というものは
こういう時
何の役にも立たないからなのだろう
ただ休んでいるようである


実体が
思考を
完膚なきまでに押しつぶした数秒間だった


普段
思考は
不都合な実体があると
これに抗おうと懸命に仕事をするのだが
この数秒間は
何もしてくれなかった


このような
思考が実体から逃走するような状態も
思考と実体の関係の一つである


何とかしようと
もがき苦しんでくれる思考も
この数秒間は
お手上げだった


在るがままを受け入れることしかできない数秒であった


逆に言えば
普段は
あるがままを受け入れていないということになる


人間が
在るがままを受け入れない不遜を行うのは
思考の為せる業ということだろう


考えれても
考え通りにいかないと思えば
不遜にもならないだろうが
思い通りになると勘違いするから
不遜になる


まあ
それが
高度な社会を築き
高尚な精神文化を花開き
高度科学技術を開発してきたのだから
不遜も重宝な能力なのだろう


思考は
実体を凌駕しなければならないと考えるのが
もしかしたら知を愛することなのかもしれない


そう考える不遜な人もたくさんいるのだろうし
たくさんいて時代を築いて来たのだろう


こうした思考が実体と闘争している状態も
思考と実体の一つの関係である