一体化:踏み絵としてのA=B
A=Bであると考えるグループと
A≠Bであると感がるグループがあると
それぞれのグループ内の構成員の間には
連帯意識が生じる
そして
A=Bのグループでは
A=Bであることを指し示す証拠を集め
A=Bであることにより生じている事態を称賛し合う
逆に
A≠Bのグループでは
A≠Bであることを指し示す証拠を集め
A≠Bであることにより生じている事態を称賛し合う
AとBは
言葉とその意味であることもあり
状況とそれに対する対応であることもあり
信仰とそれを司る神であることもあり
愛すべき対象とその具体的対象であることもある
愛すべき対象は
人であることもあり
スポーツチームであったり
趣味であったり
その他様々な対象について
様々なA=Bや
それに抗するA≠Bが生じている
A≠Bは
A⁼Cの派生的な考えでもあるだろう
いずれにしても
A⁼Bを
一体化した世界の境界を描く論理と想定することができる
Aを棲む場所
Bを地球の上に設定すると
地上の生命はすべて一体化する
Aを母国語
Bを日本語とすれば
多くの日本人が一体化する
Aを生物種
Bを人間とすれば
人類は皆一体化する
いわゆる高等動物では
免疫系の働きにより
自己と非自己とが区分され
非自己と認識される雑菌やウイルスを排斥している
一体化を維持する為に
一体でない存在を排斥する
排斥された存在は
その一体化した世界の外部に存在するのであり
不在ということにはならない
それを無いことにすることにより
一体化した世界の整合性が成立していることを
忘れてはならない
しかし
これが悲観論であり
そこに深く陥ると
A=Bにより成立するとされる幸福を享受する妨げとなってしまうから
ほどほどに忘れ
ほどほどに覚えておかなければならぬのだろう
このほどほどがまちまちであるから
思考川に流れる水は絶えることは無く
しかも元の水ではなくなるのだろう