ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

循環と遷移:『作者の死』のような「私の死」


ロラン・バルト著
『作者の死』という本がある


本は活字になり
その活字を見た読者が
活字の意味を想起する


この意味の想起において
作者はもうおらず
介入できない


作者は死んだ状態で
読者が意味を辿るという内容が
一つの主題となっている本だ


作者はもういないのだから
印税もいらない
と言ったとか言わないとか

たくさん売れたのに損をした
という話もこの本について回る


その真偽はともかくとして
人それぞれに
本に書かれていることを理解し解釈するには違いない


同じ読者が
同じ本を読んでも
若いころと
年老いてからでは
汲み取る意味が違っていたりする


意味の汲み取り方は
作者の意図通りのこともあろうし
作者の想定外のこともあろう


さて
私も
私を眺める人により
’私の意図’を汲み取られながら生きている

この汲み取られる’私の意図’に
私はどの程度介入できるだろうか?


『作者の死』で表されるように
私は
他者に解釈される段において
すでに死んでいるのかもしれない
そして
私の名前にかかわる意味世界の自立性を守るため
私は
私自身による介入を控える義務があるのかもしれない


活字が自律的に創造する世界に
作者は介入を控える義務を負うように
私も
私が想像する私でない世界へ
介入を控える義務があるのかもしれない


私の名前にまとわりついてゆく意味は
噂話のように
私の意図を離れて
独り歩きしていこそ
新たな意味世界の循環を築けたといえるのだろう


このような意味世界において
私は生きていても
活字のような媒体に過ぎない


だから
「そんなつもりではなかったのに、、、」と
嘆く事態が生まれてしまう


私にかかわる解釈は
私から離れ
自律しているのだ


私にとって
私は主体なのに
他者にとっては客体なのだから仕方がない


表現者の世界と
認識者の世界にも
物と心の間にある深くて暗い闇と
同じような闇があるのだから仕方がない

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