ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:「世界内存在」の淘汰選択


生き抜くという目的は
理性にとって
自律的な目的であろうか?
それとも
受動的な目的であろうか?


理性は
生きるという生命の目的を叶える
生命世界の一端を担う機能であり
生命世界という
理性より大きな存在のために
機能している存在である


この意味でいうと
理性における
生き抜くという目的は
自律的というよりも
むしろ
生命政界から授かった受動的な目的と言えるのだろう


ハイデッカーの言う「世界内存在」として
生命世界の中で
理性が機能しているという構造があるということだ


こうした構造において
世界は
共通の目的のもとに集う運命共同体ということになる


身体から取り出された心臓だけが動いていても
どこか空しさを感じさせるのは
「世界内存在」が
「世界」から切り離された時に感じる空しさだろう


こうした
単独では目的から分離してしまい
その存在価値を失ってしまう「世界内存在」として
心臓も
肝臓も
理性も
本能も存在してる


このような存在を
どこをとって眺めても
生きるという目的があるのだけれど
何処を切り取ってしまうと
その目的は潰えてしまう


目的のために反応する仕掛けが
何処をとっても存在し
何処を切り取っても
完全には機能しなくなるのである


タクシーやバスも
「世界内存在」であり
無人島にこれらの存在があっても
その機能を発揮することはできない


社会には
様々な組織があり
それぞれに特徴的な世界を築いている


理性は
こうした世界に入り
その世界内存在として反応するため機能している


理性は
様々な目標を創り上げてくれる


このような目標は
その理性にとって
自律的な目標であろうか?
それとも
受動的な目標であろうか?


選択という視点で眺めてみると
自然に選択され
生きていられるというように
世界に選択されてこそ
目標が叶い
輝かしい存在となれるのだろう

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