ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:受動的に起こる能動


欲望というものは
欲望に振り回されている身として
よくわかっているつもりでいる


世間というものも
世間に振り回されている身として
よくわかっているつもりである


どちらも
わかっているようでいて
わかっていないから
振り回されているのだけれど
それでも
わかっているつもりでいる


私としての主体も
似たようなもので
わかっているつもりで
わかっていないから
私は私に振り回され続けている


私は
欲望にも
世間にも
私の主体にも
受け身であり
能動的にはなれないでいる


シーラカンスも
きっと
自らの欲望に受動的であり
シーラカンスの世間や環境にも受動的で
主体的に動いているつもりで
受動的な主体として
まったくもって能動的になれぬままに
数億年の年月を過ごしてきたのだろう


命が
時を過ごすということに
受動的であるとか能動的であるとかを
決めることはできないのだろう


反応は
受動的に起こる能動なのである


欲望に対する反応も
世間に対する反応も
私という主体に対する別の主体の反応も
受動的に起こる能動なのである


反応しないということになると
受動的でもなく
能動的でもなくなる


何に対しても反応しないということになると
生命ではなくなる


だから
欲望に反応しなくなれば
欲望は無くなり
世間に反応しなくなれば
世間は無くなろう


それでは詰まらないと思うところに
命は息づく


そんなことはどうでもよいと思いながらも
反応してしまうところに
命は宿る


どうでもよいところを
あえて
どうでもよくなくしているところに
生命の尊厳が宿っているということなのだろう



太陽が昇ってくる


これをありがたいと思う生き物がいれば
光に閉ざされた世界を生き
太陽の上り下りなど意に介さない生き物もいる


どうでもよいことを
どうでもよくないと我を張るのは
そんな生き物の宿命なのだろう


どうでもよい情報がインターネットを流れている
そして
その中の興味あるものにしか私は見向きをしない
すると
その情報はどうでもよくない情報となる


世間はどうでもよい情報からもできている
だから世間はわからない


欲望も
私にはどうでもよいものがたくさんあるのだろう
だから
私の欲望にもかかわらず
私にも
どうにもわからない時がある

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