ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

水と油をつなげる扇の要


言葉を使いたければ
すでに流布している言葉を覚えなければならない


言語の世界では
個人の自由が許されない


リバタリアン的に
自由を極力大切にするために
言語の制限を最小限にして
覚えることを少なくすれば
学習の負荷は減るが
言語の機能は減少してしまう


社会の道徳も
言葉と同様に
個人の自由は許されないものの
それぞれの事情に応じて
融通を聞かせながら
適応すべき道徳を選び直す多様性が確保されている


このような
道徳の多様性が少なくなると
単純して解りやすく覚えやすいが
例外のない均一性の中
社会に所属する魅力は限定的になり
社会への帰属を忌避する動機が大きくなる


人間は
覚えた言語や道徳を
なんとなく確固たる理由もなしに
好きになるようにできているらしい


ただ
多様で厳格で複雑な体系を体得するには
粘りと根性が必要だ
だからだろうか
覚えると
その体系から離れがたくなるのかもしれない


覚えれば覚えるほど好きになる


覚えても覚えても
好きになれなければ
ますます
つらくなるから
好きになれて幸いだ


ーーーーー
メモ


それが善であるか悪であるか?
このような議論において
「どちらでもよい」というのは
ある意味
議論に水を差す厄介者だ


別の見方をすれば
「どちらでもよい」という結論にしておけば
この問題から解放され
別の問題に取り掛かれる魔法の回答だ


しかし
この「どちらでもよい」のままにしておくと
同じ行為をして
ある人は善と言われ
別の人は悪になってしまったりするから
だんだんと
「どちらでも良い」を
解消した方がよいということになる


かくして
だんだん善悪の二分法が固定化して
前例踏襲を善とする頑固な社会ができあがる


こどもの頃は
どこの社会にも
どんな言葉にも順応し
頑張れば何にでもなれる分化多能性があった


いつのまにか
そんな順応性が失われ
「昔は良かった」
「人の道がしっかりしていた」
などと
多能性を武器に
自由を闊歩していたあの頃の自分を棚にあげながら
多能性を失った自分を慰める日が来るのだろう


人間は
環境に対する汎用性を向上し
生存しやすさを獲得する戦略に沿って
進化してきた
そして
この多能性の弱点である恣意性を
後天的に制限することで埋め合わせる戦略を
併存させてきた


こうして
「どちらでもよい」という多様性と
「どちらでもよくはない」という恣意性の制限は
水と油のように弾き合いながら
それぞれの領域を確保し
社会の模様を描いている


このような
矛盾をはらんだ課題が
混在している社会の中で
道徳や倫理が議論され
水と油の領域を決めようとするのだけれど
弾き合いながら
領域の境が移ろい続ける


移ろい続ける言葉や習わし


この移ろいゆく存在の同一性を確保するため
抽象的な権威が
象徴として
多岐にわたり定まらない議論を
つなぎとめてゆかなければならぬのだろう


変わりゆくもの
弾き合うもの
形がありそうで定まらない存在をつなぎとめる
扇の要には
偉大なる象徴としての存在感が必要だ


具象的な存在感はない方がいい
偉大なる抽象的な存在感が必要だ

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