ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

記号の上の舞踏


記号の上で踊りを踊っている


うまく踊りを踊れたら
記号は維持され
ともすれば
記号が複製されて
ますます
踊りが盛んになる


逆に
うまく踊らなければ
記号は捨てられ
記号の上で踊り続けることができなくなる


自然選択は
このようなルールのもとで行われる
舞踏の品評会なのだろう


うまく踊れたご褒美に
記号の維持と
記号の複製が約束された品評会だ



舞踏ではなく
ピアノの演奏会でもあるかもしれない


楽譜があって
楽譜を見つめる目があり
その目が指の動きを指揮してゆく


目が見えなければピアノを弾けないということは無い
目が見える人に楽譜の記号を音として教えてもらい
それを耳から覚え
指の動きにしてゆけばいい


記憶となった楽譜であろうが
紙に記された楽譜であろうが
その楽譜が意図するところが
指で表現されれば
途中経過はどうであれ
楽譜の上で踊る結果としての
音の交わりや音の流れが品評される


このようにして
楽譜が品評されてゆく


楽譜そのものではなく
楽譜に反応した様々な現象が品評される


演奏されることのない
すばらしい楽譜があるかもしれない
しかし
品評されないとその意義を認識されることはない



男と女がいる世界において
男女の関係は
男の評価は女がするし
女の評価は男がするのが基本なのだけれど
男が男を評価したり
女が女の評価をしたりもする


このような対象が限定されない品評会においては
他人から反応される必要がある


反応されるためには相手を刺激しなければ始まらない


この刺激が強いと品評に晒されやすいが
必ずしも
良い方向への評価を得られるとは限らない
強引すぎると悪い評価がついてしまうからだ


評価では
刺激の質が問い正される


評価は
あくまでも
刺激を受ける側
すなわち
反応する側にその権限がゆだねられている


舞踏の評価は見る側であり
楽譜の評価は聴く側にある


人間の評定も周囲の人間にある


正義も
その評価は正義そのものにあるのではないのだろう


その正義がもたらす
次なる連鎖反応のなかで
その評価が次第に固まることになる


正義は変わらずとも
時代により
その正義の次なる反応は変わりゆき
正義の評価も変わってゆく


だから正義にも
多様性が求められている
時代を乗り越えるために
多彩な正義を使いこなす必要があるからだ


このような多彩な正義が
それぞれに記号を形成し
人間が踊る場を提供している


人間は多彩で
これが記号を多彩にしてゆく
その記号がますます人間を多彩にしてゆく


円環的な人間と記号の関係が
ますます複雑で多彩な舞踏会の会場を創生してゆくのだろう

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