ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

真偽判断:長さ3mという評判


長さ3mの白い物体の3mは
別の物体の3mと
長さという側面で同じ価値として語られる


この3mを理解できない人のためには
3mが
ヤード換算されたり
尺に換算されたりすることになる


このように
3mの基準は
長さ3mの白い物体であるのではなく
長さ3mの白い物体とは別世界由来の存在ということができる


つまり
3mは表現世界の存在であり
物質そのものではない


この3mという表現があるので
長さ3mの白い物体と
長さ3mの黒い物体も同じ長さにすることができる


物を直接比較しようにも
2つの物体を同じ空間に重ねることはできないけれど
表現世界の時空では
2つの物体を重ね合わせて比較して
様々な異同を判断できる


極端に唯物論的に考えると
別々の空間にある存在を同じとしてしまうこと自体が
物質の尊厳を著しく蔑む思考であり
同じという観念が
そもそも物自体の世界と馴染まない


「同じ」
「違う」が
観念であるのだから
観念として物体をとらえ直さないといけないから仕方がない


つまり
長さ3mは
長さ3mの白い物体に下された「評判」の一つということだ


評判は
その物自体ではなく
まわりであれこれと評価して現れる評判が
3mということだ


ちょうど3mとか
だいたい3mとか
評価する表現により
3mも様々に変化する


評判は
その評判を判断する主体により様々なのだから
物自体の性質と
評判としての性質は必ずしも一致する必然はない


そこで
この一致性を高めるために
表現力を高める努力がなされ
一致の必然性を高めている


メートル原器や
色の波長による表現は
一致性を高める努力の成果だ


より正確な表現をしなければ
3mの白い物体に失礼になるのだろうけれど
だいたいは
だいたい3mの
ぱっと見で白い物体が
長さ3mの白い物体としてひとくくりに
同じものになってしまう


評判というものは
このようないい加減な存在であるので
誤った評判も闊歩することになり
その誤った評判で苦しむ人も現れる


しかし
何処までも高い一致性を求めていると
表現にばかり労力を注ぐことになり
日常生活が破綻してしまうから
だいたいの評判で日常を過ごすことが慣わしになっている


だから
評判で苦しむ人が無くなることがない


それでも
そのような不遇が無くなるように
様々な努力も惜しまなければならないから
自由に表現することもはばかられる局面も出てくる


沈黙は金なり


物体と完全に一致する表現が強く求められると
物体は語り得ないものとなり
沈黙しなければならなくなってしまう

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