ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

正義の鉄拳と和睦の盾


正義には
鉄拳がつきものだ


正義は
とても攻撃的で
他者のみならず
自身にも刃を向ける
・・・はずである



しかし
正義の鉄拳は
自らを棚に上げ
他者に向かうから鉄拳だ


理屈が
暴力という実践に変換され
正義が鉄拳制裁として現れるのだ


鉄拳として変換された正義に
理屈として対抗することは難しい


ピストルを突き付けられた状態でする思考に
制限があるからだ


だから
正義が鉄拳に変換される前に
正義を弱毒化しておかないと
理屈は鉄拳を防げない


正義を弱毒化する理屈は
「正義は鉄拳になるから悪である」ということではない


鉄拳が悪だから
正義も悪かといえば
そうではないからだ


ではどうするか?


正義よりも
理屈抜きの和睦に重きを置ければ
正義を弱毒化できるだろう


正義を
ふにゃふにゃの
ひょろひょろにできれば
最高だ


重厚長大な正義よりも
柔軟な正義をたくさん認め合うのが
多様化社会ということなのだろう


「あんなのはダメだ」と決めつけるのは
多様化社会を阻む悪徳であり
「それもそうだが、、」と
ふにゃふにゃと仲良くしているのが
多様化社会を生きる術になるだろう


そんなふうに
みんなでふにゃふにゃすれば
政党も
国も必要なくなり
争いはなくなり
カンブリア紀よりもずっと以前のように
ふにゃふにゃで
攻撃力も防御力も稚拙な生き物も
平和に暮らせる社会になるのだろう


そんな社会の中で
正義の鉄拳が現れると
瞬く間に
正義の鉄拳が社会を支配してしまう


そうなると
正義の鉄拳同士が
戦い続けることになる


生きることは
自らの正義を振り回し続けることでもあるからだ


蛇もカエルも
ウサギも鷹も
それぞれの正義の旗のもと
はたから見えれば「徒労」な努力を
命を懸けて繰り返し
命を紡いでいる


厭世家は
そんな懸命な努力を
ふにゃふにゃと見守り続ける振りをしながら
自らの生を紡いでいる


和睦は
「理屈抜きで私を攻撃するな」という
鉄拳の裏側にある
自らを棚に上げる姑息な努力であり
願いであり
戦略だ


矛盾は
思考の中で両立し
その実践は
時間の循環の中で解消される


私の思考の中でも
矛が優位の時間と
盾が優位の時間が
循環している


時代の中でも
循環しているようだ


時代の空気感と
自身の空気感が一致している時間が
ありがたい


だからなのだろう
スポーツ観戦で
ひいきを応援している時
一体感に酔いしれる快感が訪れる


時代に取り込まれる快楽だ

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