ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

現象と構造:クオリアを物質化する技能


バラの花の色を表現する時
その色の名は
予め頭の中に存在している色の名の中の一つだ


バラの品種名を表現する時
その品種名もまた
予め頭の中に存在している品種名の中の一つだ


色や
品種名としての言葉が
予め私の頭の中にないと
私は
そのバラの色を表現できないし
そのバラの品種名の話をできない


だから私は
バラの花を見て話をするとき
「満開だね」とか
「こっちは枯れかけている」とか
「きれいな赤色だね」
「ちょっと褐色がかっているけどまだきれいだね」
などと
少ない語彙でも話せることを話し
品種名の話は
バラの枝や
バラの脇に品種名の表示がされている時に
「面白い名前だね」
「由緒ありそうな名前だね」
などと
予め品種名を知らなくても話せることしか話せない


話をするためには
言葉をあらかじめ記憶しておかなければならない


色の感覚の記憶と
色を表す言葉を結び付け記憶しなければならず
バラを接した経験の記憶と
そのバラの品種名を結び付け記憶しなければならない


様々な経験と言葉が
コードとして結びつけ
それが語彙となり蓄積している


こうして出来上がった構造の中でしか
話をできない


こうして出来上がった構造の中で
色は
波長ではなく言葉になり
品種は
生命ではなく言葉になる


言葉は
物理化できるクオリアなのだろう


頭の中でおきる現象を
言葉として表現できるからである


言葉は魂の生まれ変わり
ということだ


「赤いバラ」と言った時の
「赤」は
バラにあるのではなく
知覚なのだ


バラは
赤色の光源ではなく
波長700 nmの波長の光源である


赤色は
神経の興奮を経て
その興奮に対して
「赤色」と名前を付けた過去の記憶がよみがえり
はじめて赤色が生まれることになる


「赤色」と言葉にしたとき
外から来た光に対して受領した経験を
言葉として外へと変える作業をしたことになる


ただそれは
もはや光ではない
言葉である


光という刺激による神経の興奮を
赤というクオリアとして認識し
それを
赤という発生や
赤という記述により
外部へと返すのだ


赤外線に対しては
スルーしてしまう反応系が
700nmの光に対してはきちんと働くのだ


そして
赤色を会話として用いる相手にも
同じシステムが存在しているだろうと
認識しあえるのだ


会話のできない猫も
赤色を見ているかもしれないが
会話からそれを認識できない


しかし
そんな猫も
レーザーの赤い光に反応し
レーザー光の当たった壁をじゃれまわる姿を見ると
赤色を見えているのかと認識できる


赤のクオリアはあるけれど
赤の言葉は猫にはないようだ


あっても
わたしにはわからない言葉なのかもしれない


いろいろな「にゃー」が存在しているからである


「赤」を光であるなどと思えうる輩に
「にゃー」は光ではないと言う資格はないだろう

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