ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:全体であることからの離脱が秩序を生む


言葉が正確であるほど
言語化とその実体化の連鎖が
定式的に進むことになる


そうなれば間違いはないはずのだが
なかなかそうならず
間違いが起こる


たとえば
助手席のナビゲーターに
「右に曲がれ」と言われているにもかかわらず
左に曲がってしまうことがある


ナビゲーターが右と左を言い間違えることもあれば
ドライバーが右と左を勘違いしていることもある


言葉が正確に使われないと
定められたルートに沿った物事の進行が
滞ることになる


この正確性は
差異化し
他の可能性を否定するという点で
全体性を否定し
局在化する努力ということになる


言葉を
より正確に
より洗練させることは
全体から遠ざかるということだ


晴れの日は雨の日ではない


晴れと雨を足してくもりにすれば
晴れでも雨でもなくなる


言葉は
全体の中の一部を選び取ってこそ輝く


言葉は
実体を照らすスポットライトなのだ


だから
言葉を尽くせば尽くすほどに
語られない実体を
言葉の世界から排除し
暗闇に隠すことが出来る


「何が語られたのか」よりも
「何が語られないか」がより重要であったりするのは
こうした言葉の性質に基づいている


同じように
「何が買えるのか」よりも
「何が買えないのか」が重要であったりもするのだろう


権力も
「何ができるのか」よりも
「何ができないのか」が重要であるから
三権分立が唱えられたのだろう


オタマジャクシは
ナマズにはならない
ドジョウにも
鳥にも
人間にもならない


命も
全体ではないことで
それぞれの命をつないでいる


「なんにでもなれる」ということは
夢はあるが
「どんなものにもなれない」という現実の中にある


たとえ
神の教えであっても
それは全体からの離脱するものでなければ
現実的な教えではないのだろう


教えを乞うことは
いびつになり
秩序立つことである


逆に言えば
現実的に役立つ論理は
いびつでなければならない


地球も
時空がいびつであるから
太陽の周りをまわれているのだろう

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