ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:自由の相対性


自由になるということと
自由にされるということの間に
大きな差がある


能動と受動の差であり
自由を行使する主体の相対的位置の差だ


そして
そのどちらも
完全な自由ではないから
自由という言葉は難しい


それぞれに予定を持ち
それを実践しようとしている


そして
その予定を実践し得た側が自由であり
その実践を果たし得ない側が不自由ということになる


どちらも
予定に支配された身であるには違いない


予定を自由に実践できる側が
予定を自由に実践できない側であるか
というような差が
自由になるということと
自由にされるということの間に在る差の様だ


自由が許されるということは
思い通りに実践できるということで
その思いからは自由ではない


こうした意味で
自由には相対的なところがある


洗脳されていれば
自由であると思いながら
不自由を背負わされている


本能を埋め込まれ
自由であると思いながら
不自由を背負わされている


そんな不自由に振り回されながら
自らが描く予定を実践しようと
自由を求め続ける


予定が
実践される可能性が高くないところに
自由という概念が育つのだろう


予定が実践できない不自由の反語として
自由があるようなところがあるということだ


手足がしびれたり
攣ったりして動けなくなる時がある


それから解放されると
自由に手足を動かせるようになる


繊細な動きや
素早い動きを出来ずに
不自由を感じていた手足であっても
この時ばかりは
その自由に動かせる喜びに浸ることが出来る


自由は相対的なところがある


だから
自由を追い求めれば
際限のないことにもなるのだろう
そして
洗脳されたり
足るを知れば
どんな不自由な状態でも
自由を満喫できるということになるのだろう

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