ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

思考と実体:思考が制作する寄木細工のキャンパス


あの人の目は素敵だけれど
あの人の鼻はいただけない


なんてことがあるとしよう


この様な場合の「あの人」は
一体
素敵なのだろうか?
それとも
素敵ではないのだろうか?


全体というものは
寄木細工でできている仏像様のようなもので
良いと悪いが混在しているのが大抵である


良い処だけ見れば素敵であり
悪い処だけ見ればいただけないということになる


思考は分離して評価するから
素敵であったり
いただけなかったりするけれど
実体としてのあの人は
素敵なのか
いただけないのか
何かよくわからないという風になる


よくわからないというのは
何やら落ち着かないので
わかる様にしようと
思考はどうしても
部分部分で評価をして
「目は素敵だけれど
 鼻はいただけない」
という風に思考して
一つとして固まっている実態を
寄木細工のようにしてしまう


「あの人」にしてみれば
「私は寄木細工ではなく
 れっきとした一木造です」
と言いたくなるのかもしれないが
そんなことはお構いなしに
「目は素敵だけれど
 鼻はいただけない」
と思考は主張する


ここに
思考の還元主義と
実体の全体主義が葛藤を迎えることになる


そんな葛藤をよそに
思考というものは
そうしないと思考の意味がないとばかりに
空に色を塗りつづけ
色を塗られていない空っぽがあると
そこにまた色を付けてゆく


だから
思考がなくなれば
素敵な絵画から色を落とすと
無地のキャンパスに戻るかの様に
何も無くなる


無に帰するのだ


そうなれば
素敵でもなく
いただけなくもない「あの人」が
ただ実体として残される


言い換えれば
思考のキャンパスの額縁から外れた壁の向こうに
「あの人」の実体が残されることになる


やもすれば
思考のキャンパスの前面に
「あの人」が空気のように立っていたりもするのだろう


空気に関心がない時には
思考は目の前の空気があることを気もしないでいられるから
思考はその先を見つめ続けることが出来るのだろう

×

非ログインユーザーとして返信する