ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

思考と実体:思考は真の無い偽を見出し得るか?


嘘は
比較において評価される


受け入れがたい現実を前に
「ウソだ!」と大声で叫びたくなる時がある


頭の中に在る「あるべき現実」と
目の前に在る「受け入れがない現実」との間に
大きな差異があり
「受け入れがたい現実」を「偽」としたいという強い思いが
「ウソだ!」という言葉となり
頭の中に鳴り響く


このような思考現象において
「あるべき現実」が
いつも「眼前の現実」であるならば
「偽」は生じない


模範解答と
解答が一致していれば「〇」であり
不一致ならば「×」である


そんな思考回路の中で
「ウソ」が生じている


このように
「ウソ」は「本当」を前提として考えられている


本当であろうとなかろうと
本当と考えているものが基準となり
その基準との一致において「本当」が生じ
不一致において「ウソ」が生じる仕組みとなっている


このような仕組みであるから
「ウソ」がまかり通ることになる


基準が「ウソ」ならば
「ウソ」が「本当」となるからである


そんなわけで
法律が嘘ならば
罪を犯しても無罪となる


だから
法律を作る人たちが
嘘つきなら
嘘つきの社会ができあがる


人間には
嘘が好きなところがある


正解ばかりの固いことばかり言っていると
世間から疎まれてしまうという話をよく聞く


裸の王様の童話の中の嘘を暴く少年は
一歩間違えば
裸の王様から罪を着せられ
一生牢獄暮らしになったかもしれない


嘘に染まらなければ生きてゆけなければ
お風呂に入る様に嘘に浸かりながら
「真実ばかりでは疲れてしまう」と嘆くことにもなるのだろう


嘘に浸かっているにも関わらず
「真実」を見出そうとするから疲れるのである


いっそのこと嘘を真実とすれば楽である


ところが
哲学は真実を求めたがる


だから
哲学には
独杯を仰ぐような困難さがあり
嘘を美しく受け入れるための難解さがあるのだと私は思う


純粋な思考には基準がない


純粋思考に真がないにもかかわらず
その真を求め偽に思いをはせ続けるから
知を愛せるということだろう

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