ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

倫理の多様化と普遍化


暴君になって
やりたい放題してみたい


こう思ったことは
誰しもあるのではないだろうか?


でも実際にしようとしても
できるものではない


単に倫理があるからだけではないだろう


表情やしぐさから
相手の思い感じ取ることができ
その結果
それに応じようとする意識が動いたり
逆に
それに逆らおうとする意識の動いたりする


このような反応が定型化すると
成文化して語り継がれる倫理ができあがる


だから
個人の体験から定型化してゆく
体得型倫理的側面もあれば
言い伝えなど言語から定型化してゆく
学習型倫理的側面もある


いずれにしても
体験や言語により交流しながら
倫理が熟成していることから
倫理には周囲とのつながりが強く現れる


言葉で言ったら
方言のようなものが形成されやすいという事だ


今のつながりの中で
倫理が形成されるという事だ


社会的なつながり
地域により
倫理に個性が現れる


だから
普段は経験することのない気取った場所で
方言と意識していなかった方言を言ってしまうような
倫理上の失敗も生じてしまう


旅の恥はかき捨てなければ
普段の倫理を汚すことにもなるのだろう


方言の里では方言を使う方が丸く収まる


田舎で
「都会では、、、、」
などと気取っていては
暴君が暴れているかような
目で見られてしまうことにもなりかねない


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メモ


企業倫理
政治倫理
医療倫理
教育倫理
報道倫理


様々な分野に
様々な倫理が林立するのは
それぞれの社会特有の問題があり
それぞれの思惑があるからなんだろう


このようにして生じてゆく
倫理の個性は
それぞれの社会の中で
倫理が機能しているうちはよいのだけれど
一般社会の中で形成される
より普遍的な倫理と
比較され批判されることもある


倫理が形成されてきた経緯や理由が無視され
行動規範としての倫理が否定されてしまうと
否定された方は
言い訳やら反論をしたくなる


インターネットの発達により
文化交流が盛んになり
出会う機会のなかった文化が
接触できるようになってきた


今までにない
個性と個性の交わりと衝突が起こっている


そのなかで
多様性を認め合うという普遍性が求めれている


多言語能力が推奨されているかのような倫理観だ


生きるために覚えることを
人間文化は増やし続けてきた


これからもそうなのだろう


どこまでも覚えなければならぬのだろう、、、か?


ただ
唯一の絶対的倫理に
決して背くことができない世界というのも
どこか居心地の悪さを感じるから困ったものだ

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