構造と壁の狭間にある自由と野蛮
自由と野蛮の違いは
どこにあるのか?
ひとつには
管理の有無をあげられよう
しかし
管理された自由も
管理されていない結果としての自由も
管理された野蛮も
管理されていない結果としての野蛮もある
人がやれば不倫
自分がやればロマンス
そんな言葉がある
自由と野蛮も
ロマンスと不倫のように
同じことの表現の違いだろうか?
同じことを
飾り立てることもあり
蔑むこともある
それに呼応して言葉が存在する
*
イデアの国があったなら
自由のイデアも
野蛮のイデアも
凛として永遠不滅のまま存在しているだろう
*
言葉の定義を
私一人ですることができる
定義をするということと
その定義が世間に受け入れられるということは
別物だ
*
世間に受け入れられた言葉の定義は
構造と化し
世間の共通認識としてのイデアのようなものになる
言葉も
イデアも
構造だ
その構造に従うことが
世間に属することになる
構造が
反応を支配する
弱い支配もあれば
強い支配もある
構造の支配から外れた反応は野蛮だ
構造の支配が緩い領域は自由の領域だ
*
子供のころ
どうすればよいのかわからないことが沢山あった
戸惑うことが沢山あった
世間の構造を知らないからであり
世間の構造を学習する時期であった
世間の構造を知り
その構造に従わなければならないと
思っていた
人間には
様々な構造を受け入れる
自由な受け皿が用意されているらしい
*
自己の外に構造があり
それを自己の中に取り込んでいる
この構造に内包された管理の緩い領域が自由であり
この構造から離脱した反応が野蛮という考えもある
個人には
構造を操る自由がないのだろうか?
社会と個人の間に
壁がある
自由を守る頼りない壁がある
生きようとする力と
生き易さを求める力が混じり合った
私が創った壁である