ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

発すれば通ず、、、、


年を取り
物忘れがひどくなるにつれ
「あれ」とか「これ」を多用するようになる


言いたいことは頭の中にきちんとあるのだが
言葉にならない


言いたいことと
言葉は別物らしい


記憶と意識が別物だということだろう


意識に戻ってくる記憶もあれば
覚えたけれど出てこない言葉がそうであるように
意識に戻ってはこない記憶もある


無意識と意識の境界線は
言葉とすれば
たしかに境界がなければ落ち着かないけれど
実際に境界線が引かれてはいないだろう
境界線は言葉次第で自由に揺れ動いているようだ


記憶と意識の境も
「あれ」と「これ」の境をどこにするのかを決めるようなものだろう
さっきまで「あれ」だったものが
いつの間にか「それ」になったりするのだ


「私」という言葉や「我」という言葉が意味する範囲も
文脈により異る
それを一概に解釈しようとすると混乱する
なにもかも
「あれ」と「それ」でしか表現してもらえず
混乱してしまうようなものだ


これは言葉の範囲が大まかすぎる混乱だ


かといって
言葉に厳密を求め過ぎると
言葉の使い分けを覚えることが精一杯になり
それはそれで混乱してしまう


これは言葉の範囲が細かすぎる混乱だ



人間のすごさは
「あれ」や「これ」で
混乱なく会話ができたりすることだ


きっと
けしてたどり着くことのない
予定調和を求めて調整しあう
優しい気持ちなのかで
言葉が言葉として
ゆっくり熟成してきているからにちがいない


わかろうとする気持ちをふくめた
聞く力は
言葉の力の源
人間の力の源なのかもしれません


ーーーーーー
メモ


指示代名詞は魔法の言葉


ほれ あの それ あの人が、、、、
いや まあ なんだか その、、、、


気持ちは
「あぎゃー」だけでも
通じるときは通じる


通じなければツギハギすればいい


聞く側は
ツギハギだらけの言葉たちを受け入れればそれでいい
一を聞いて百を聞けばいい
足りないを足りるにするればいい


「昔はツギハギだらけの服を着ている子がいい親に育てられている子供だった」
そうお話ししてくれたお婆ちゃんがいました
「それに引き換え、今の子はツギハギのない新品の服しか着させてもらえない」
「手をかけもらえずお金しかかけてもらえない子供がどんな大人になるのやら」


ありがとうございます。

命は反応の束である


春、暖かくなると桜が咲きます
秋、陽が短くなると菊が咲きます


抽象的に表現すると
環境に応じて生命が反応します


もっと抽象的に表現すると
原因が結果をうみます


極楽鳥の雄の求愛ダンスに
雌が反応します
雌にとり雄は環境です


言葉を発する人と
言葉を聞く人の関係も同じです


環境の刺激に反応しながら命が営まれています
上手に環境に適した反応ができるということが
上手に生きるということです


環境に応じて生き方を変えるのです


晴れた日は気分がよく
雨が降っているとなんだか憂鬱です
そのように反応するように
いつの間にかなっていました


言葉も環境です


心地よい言葉もあれば
聞きたくない言葉もあります
それぞれの言葉にそれぞれの反応があります
何時も同じではありません
誰でも同じではありません
同じ言葉に違った反応が生じます


わからない言葉には
わからないなりの反応しかできません


私の身体は
私の意識にとって環境です


お腹が痛いとそれに反応します
腰が痛いとそれなりに反応します


目に見える私の手先は私の意識ではありません
ただ私の意識どおりに動く便利な環境です


なぜそのように動くのかよくわかりませんが
大切にしたい環境です
だから
わたしも大切にされたいときは
大切にしてもらいたい環境の思いを汲んで動くようにしています


今風に言えば
忖度するということになるのでしょう
だからでしょうか
私の足が私の意識に忖度するように
私は私の足を鍛えたり
大切に洗ったりしているのです


ーーーーーー
メモ
生き物は基本的に
環境の中から
生きる糧となるものを見出し
それに反応する能力がないと生きてゆけません


細胞の中の様々な仕組みも
様々な物質への反応の連鎖です


反応ができることが大事なのです


何が何に反応するのか
それが遺伝子情報として蓄積されています


致死遺伝子というのがあります
うまく反応できない仕組みを作ってしまう遺伝子です
このようなことがないように
意識に登らない多々様々な反応が揃いに揃って初めて命が営まれます
生きているということ自体が大変に不思議な現象です
だから
生きているだけでは満足しないのは贅沢な話です
それでも
生きているという奇跡だけでは満足しないからこそ
命はさらに輝いてゆくのです


ありがとうございます。

本能は遺伝子の贈り物


本能が無い人間はどうだろうか?
リンゴを食べないアダムとイブだ



子供のころ
植物のような葉緑体を持ち
働かなくても生きていけるようになればいいと思ったことがある
水と太陽があればお腹が満たされる
霞を食べる仙人のような暮らしができる


ついでに不老不死になればいい
自分が生きていればそれでよく
子供を作り育てる必要もなくなる
神様のようになれるかもしれない


神様や仙人は
怠け者が創造した生き物かもしれない


すると
神様や仙人には本能はないかもしれない




生きることは
壊し創ることだ


細胞は絶えず破壊と再構築を繰り返し
生きるため機能を提供している


生きるための機能は
エネルギーや材料の取得と形状と機能の維持だ


どちらのシステにムも
遺伝子の情報に依存して
維持されている秩序だったシステムだ


人為的設計ではなく
自然が設計した遺伝情報は20数億年の歴史により磨かれた
ノウハウの結晶だ


本能もその結晶の一部だ
システムに必要なものを環境から取得するシステムの心臓部をなすシステムだ


食物や配偶相手を見つけ
接点を設ける機能だ


天敵やライバルを忌避する本能も大事なシステムだ


長い歴史の中で獲得して維持されたきたシステムだ
そのような高性能なシステムを授かったにもかかわらず
なまけたいのだから贅沢な話だ


逆に言えば
貯金がたくさんあり
あくせく働かなくてよい人の本能は使いで半分
可愛そうなものである


そう強がって
さみし気な本能に同情してみるのも
乙なものだ


ーーーーーー
メモ
本能のない理性は
けんか相手のいない一人っ子のように
寂しいものなのだろう


ポリス「孤独のメッセージ」という曲はとても好きな歌の一つだ
孤独だから助けてくれという趣旨のメッセージを発する主人公のもとに
孤独だから助けてくれとのメッセージがあちこちからたくさん届き
みんな孤独なんだと納得する歌だ


本能を失った理性は
どんなメッセージを発するだろう


隣のギアがないギアは空回りするだけである


ありがとうございます。