ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

価値観の共有と対峙


健康は
失って初めて気が付くもので
備わっている時には気づかぬものだ


価値観というものにも似たところがあり
同じように共有していると気が付かず
持っている価値観が相違するとよく気が付くようにできている


だから
皆が
同じ価値観を持っている社会は
平穏で健康だ


逆に
同じ社会の中で
違う価値観を超え高に叫び合うと
険しく不健全になる


違う価値観を持つ者の間では
「どちらの価値観に従い 物事を進めるのか?」を巡り
しばしば争いが起こる


食器を洗うのは男の仕事か女の仕事か?
掃除はどうだろう
子育ては?
参観日には父が行くのだろうか?
母がいくのだろうか?
稼がなければならないのはどちらなのか?


同じ社会の中で
違う価値観を超え高に叫び合うと
険しく不健全にならないまでも
その調整をしなければならない分
社会の効率は悪くなる


価値観の競争に
勝ち続けることに
どれほどの意味があるだろうか?


負けるが勝ちということがある


この言葉が
ひとりの人間の中で
負けてもかまわない価値観を許容することになる


様々な価値観が混濁する中で
譲れない価値観と
譲れる価値観の分別がされてゆく


この思考の過程で
共有している価値観は認識されにくい


このことが
譲れない価値観を過大評価し
争いをより大きく
取り返しのつかないものにしてゆくことが
しばしばある


健康と価値観の共有は
失って初めて気が付くものであるらしい


だから何かを大事にしようと
小さな小さな価値観の妥協を繰り返してゆく


それが溜まり溜まって
大きな不満に育ち
「なんでそんな小さなことにこだわるのか」と
怒られるような文句を垂れるようになる


健康も同じだろう


小さな体の歪みが
溜まり溜まって
辛い倦怠感や痛みをもたらしているのだろう


脳だけでは生きている価値がない


知性が活躍できる土壌を耕さなけらば
知性の価値観もおざなりにされてしまう


価値観などの対峙があるから
自分を見つめる機会があって
何にもなければ
知性も
健康も
ただ何となく過ぎてゆき
面白みに欠けてゆくのだろうから
歪みやたわみがあってこそ
知性も
健康も
鍛えられるというものだろう

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