ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

能動的反応:意志と実践の間の河


目の前の目玉焼きを
食べようと考えている「意志」と
実際に食べる「実践」の間には
男と女の間にあるような
深くて暗い河がある


いくら「意志」が
目玉焼きを食べようと提案しても
手が動かないとうまくいかない
仮に
手が動いても口が動かなければ
目玉焼きを食べるという「実践」には至らない


実際には
手や口ばかりではない
全身の筋肉が姿勢を維持し
目も目玉焼きを見つめなければ
目玉焼きを食べるという「実践」は遠のいてしまう


この「意志」と「実践」の間の河は
男と女の間にある河と比べれば
たいそう渡りやすくできているから
河に舟をこぎ出せば、簡単に渡れてしまう
だから
日々、目玉焼きを食べたいと思えば
簡単に手や口が動いてそれを「実践」できている


しかし
深くて暗い河には違いない


その河を
どうやって渡っているのか、、、
ちっともわかっていないからだ


どうやって渡ったのか、、、全然わからないうちに
自然に「意志」と「実践」が結びついている


それに
「実践」は自動運転する車のように
いちいち詳細を「意志」に確認しないまま
なんとなく目玉焼きに手を伸ばしたり
口に入れた目玉焼きを咀嚼したりする


口に入れた後のことまで言うと
喉元を通り抜けた目玉焼きが
どうやって消化され
どうやって吸収され
どうやって私の血肉になってゆくのかは
観念的に意識できても
個別具体的な「意志」として意識できない


無頓着に、「意志」以外の何かに丸投げしているのだ


目玉焼きだったものの内臓での消化や
目玉焼きにどのように手を伸ばし
口に入れてどのように目玉焼きを咀嚼するのかを
「意志」以外の何かに丸投げしているのだ


この「意志」以外の何かが
手や口や消化管を、いうなれば自動的に動かして
様々な「実践」が繰り広げている


「意志」以外の何かにが「実践」を支配しているのだ


手や口や消化管の「連帯」を
「意志」以外の何かが結び付けてくれている


私の身体内部の「連帯」だけが「連帯」ではない


人と人が「連帯」して
ひとつの仕事を完成させるということは
簡単なようでいて
「連帯」という困難を克服しているからこそ「実践」できている


・・・卵焼きを食べるのにも
   様々な現象が連鎖しながら
   深くて暗い河を超えている
   人と人がつながるように
   手や口や消化管がつながっている・・・


そう思うと
卵焼きにも違った味わいが湧いてくる


「君と出会えた奇跡」と同じように
手が卵焼きを口に運んでくれている奇跡に
感謝もしたくなる


様々な存在が
様々な存在に能動的反応を繰り返しながら
「連帯」という深くて暗い河の間を
橋渡ししてくれているのです


意志という実存と
実践という実在の間を
能動的反応の連鎖が繋げてくれているのです


ありがたい仕組みです

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