ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

能動的反応:好き嫌いを飲み込む定言命法


生まれながらの味覚だろうか
おいしい食べ物があったり
まずい食べ物があったりするので
好き嫌いをするのは仕方がない


仕方がないのだけれど
この好き嫌いを固定化して
自己のアイデンティティーとするから頑固になって
始末が悪くなる


嫌いなものは嫌い
こんな感情的なものに加えて
嫌いな理由を次から次に整えて壁を創り
この壁の中で
「これは嫌いでなければならない」という
理性的でもある定言命法を育んでゆく


この頑固な定言命法が確立すると
壊すのは容易ではなくなる


壁を壊そうすれば
人格否定されたように感じ
理性的な防御反応まで引き起こしてしまう


私は
「ニンジンは嫌いでなければならない」
という定言命法とともに生きてきた


もはや
ニンジンがうまくないという感覚的な本能の問題ではなく
理性の問題となっている


ニンジンが好きな人からすると
偏屈な人間になっている


・・・あの青臭い独特なにおいは何のためにあるのだ
   きっと
   人間に食されないように
   ニンジンが意図して貯えたいやな臭いに違いない


   そんなニンジンの意図に逆らって
   我慢を重ねて
   ニンジンを食べるなど
   神の意志に反する暴挙ではなかろうか・・・


こんなことを考えながらも
実は
私はニンジンを食べている


世間が
ニンジンは食材と決めつけられているから
しぶしぶお付き合いをさせられている


・・・本当の私ならば
   ニンジンを食べないだろう
   しかし
   私はニンジンを食べている


   私は
   ニンジンの市場のある社会に生きているから
   不本意にもニンジンを食べさせられている・・・


こんな葛藤の中で私は生きている


私は
ニンジンを食べる私に向かい
憐れみと
やさしさを交えた視線を送り
社会に暮らす私を応援し続けなければならぬのだろう


道徳は
大多数の個人の定言命法を
社会の定言命法へと変容させる努力の賜物だ


だから
好きな道徳もあれば
嫌いな道徳があるのは仕方がないことだし
好き嫌いを言わせない強制力も必要だ


ニンジンを生産する畑があり
ニンジンが流通し販売され
様々なお料理のレシピの中に登場する


こんな実践の中で
ニンジンは食材としての地位を固め
「ニンジンを食べなさい」という
定言命法が永遠の真理のように猛威を振るっている


しかし
ニンジンの畑がなくなれば
この地位も
定言命法も変容したりするのだろう


道徳も生き物だ


犬を食べてはいけないという道徳があるように
いつしか
ニンジンを食べてはいけないという道徳が進化してくるかもしれない


ホッブスの描いたリバイアサンも
このような生き物の象徴だろう


世界を包み込む
大きなリバイアサンが
私にニンジンを食べろと強要している


リバイアサンは
きっと
私より頑固で理性的な生き物に違いない


その生き物に屈服されながら
私はニンジンを食べている

×

非ログインユーザーとして返信する