ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

能動的反応:言葉という生き物


ダーウィンズフィンチは
豊富にある食べ物に応じて
そのくちばしを
それを食べるのに適した形へと
進化させてきたと考えられている


この例でも分かるように
環境に応じて
臨機応変に対応できると「生き易さ」が向上する


氷結の地には
氷結の地の流儀があり
南国の地には
南国の地の流儀があり
砂漠の国には
砂漠の国の流儀がある


農村には
農村の流儀があり
都会には
都会の流儀があり
市場には
市場の流儀があり
戦場には
戦場の流儀がある


人間は
流儀を臨機応変に変えられる適応的な生き物だ


この「生き易さ」を向上させる臨機応変の能力が
言葉に端的に現れている


状況が変われば
言ったことを覆すことも凄く簡単にできるのが言葉だ


本心ではない嘘の心も語ることができる


いくつもの人格を
それぞれの流儀の中で
あるいはそれぞれの物語の中で使いこなす


ただ
臨機応変な反応は
誤ると大変なことになる


たとえば
戦場にいるにもかかわらず
農村での流儀にこだわると命を危険にさらすことになる


歓楽街のお客様であるような振る舞いを
会社や家庭でやってしまえば
後が大変だ


臨機応変に
流儀を使い分けなければ
「生き易さ」がひどく低下してしまう


ダーウィンズフィンチも
果実を食べやすいくちばしで
虫を食べなければならないとなると厄介だ


どんなくちばしの形を選ぶのか?
どんな言葉を選ぶのか?
どんな態度を選ぶのか?


くちばしの形は生まれながらに決まってしまっているから
臨機応変というわけにはいかないけれど
言葉は臨機応変に変えられる


変えられるからこそ
注意が必要で
この注意が払えないようなら
黙っているのが一番だ


それに
臨機応変の生き物だから
言葉に自分らしさを求めても
その場の流儀に
すぐにかき乱されてしまうから
そもそもある抱かないだかわからない自分らしさも
どんどんわかりずらくなってゆく


言葉は
自分の流儀だけでは動かないし
動かせないのだから仕方がない


いつだって
その場の流儀で動き回っている


私の言葉であっても
周りの流儀との共作に過ぎない


だから
いつも
言葉は臨機応変だ


私と周りの共作でできた生き物だ


私が発する言葉も
発する前からすでに
私とは別の生き物なのだから
嘘が混じるし
言ったはじからまた別のこと言いたくなる


これが言葉の本体だから
自分らしい素直な言葉を大切にすることは
できもしないくらい難しく
それゆえに
大切なことだと言われ続けてゆくのだろう

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