ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

同一性:画一化されたしあわせ


小学校のころ
運動会で
整列をさせられた


よそ見をしたくなり
よそ見をすると
「よそ見をするな」と怒られた


隣の人と話したくなって
話をすると
「話をするな」と怒られた


皆が同じようにしていないと
整列ではないらしい


小さな自由の抑圧だ



身体障がい者に避妊手術を施した時代があったという


中国のウイグル族は
無理やり避妊手術を受けさせられているという報道がある


避妊手術は良くない事らしい


この避妊手術を
動物愛護団体が推奨している


むろん犬や猫に対してであり
人間に対してではない


不幸な犬や猫が増えないための優しい気持ちかららしい


同じような考え方として
反出生主義という考えがある


不幸の総量と
しあわせの総量を比較して
前者が大きければ
出生を抑制した方が
しあわせの総量は相対的に増加する


だから
人間も
生まれない方が良いという
究極の功利主義適合理主義だ


命は
そんなふうな合理的で論理的な存在ではないから
存続してきたのだろう


苦労に苦労を重ね
それでも息絶えてしまいながらも
生き延びて来た


同じ命でありながら
動物と人間は同一ではないから
「動物」と「人間」と区別がなされ
それぞれが同一の枠の中に整列させられている


主体は「人間たち」だ
それぞれの人間は
動物と同じように
その客体だ


ただ
動物より
優遇されているからありがたい



小学校の運動会のように
なぜ整列しなければならないのか
その理由がわからないままに
たくさんの命が
その運命に従い生き延びている


生き易さを求めるが為に
怒られればそれを正し
自らに備わった機能を駆使して
懸命に生き延びている


生き易さを求める理由は
生きるためであり
生き延びる理由は
生きたいからだ


しあわせは
二の次だ


だから
避妊手術を良くないことと思うのだろう


動物愛護の避妊手術推奨は
小学校の運動会の整列のように
許されている
小さな自由の抑圧という位置づけになるのだろう


しあわせの形も整列されるのが
「人間たち」の流儀ということだ


「人間たち」に私も巻き込まれている


そこから抜け出そうともがくのだけれど
ついつい私もそこに巻き込まれてゆく


それでよいのだろう


それがよいのだろう

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