ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

内部と外部:一人称 二人称 三人称


「私」は内部で
「あなた」は外部だ


その外部の外側に
さらに
「彼」や「彼女」がいる


「私」は
外部を見渡し
「あなた」を見出し
「彼」や「彼女」も眺めている


「私」がいると懸命に考えていたデカルトは
私には「彼」である


死んで今はいなくとも「彼」である


そんな彼の墓標の前に立ち
「あなたは。。。」と声をかけることができる


この声掛けにより
デカルトは
三人称から二人称へと変化する


何も墓標の前に立たなくとも
デカルトの著作を読み
「あなたは何を考えていたのだ」と思えば
「彼」は「あなた」になる


我思う故に「あなた」在りである


このように
デカルトを「彼」から「あなた」に変えることができる「私」にも
デカルトを「私」に変えることはできない


ここに
思うことの限界がある


創造の中で
宇宙の果てや海の底に潜っても
私は「私」であり続ける


思えば思うほどに「私」であり続け
他の存在ではない「私」になる


「私」を「あなた」に変えるには
私は考えることから抜け出して
外部に溶けださなければならぬのだろう


そうなると
「私」として維持されている秩序は崩壊し
「私」は「内部」ではないられなくなるのだろう


私が「外部」になるという事は
どういう事だろう?


客観的な私は
何処かに存在できるのだろうか?


私を「彼」として思考するほどに
私は「私」になりすます


ここに思考の限界がある


私は知れば知るほどに
「私」に囚われる


この限界が新たな出口である入り口を設けている


外部を内部に取り込もうとする入口だ


独裁の入口だ

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