ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

予定と実践:嘘と幻想と自己肯定感


花の種は
あくまで種であって花でないように
夢や希望は現実ではない


しかし
未来との連なりの中で
花の種は花として
夢や希望は現実として想定されている


生命は
このように
現実ではないことを現実と想定しながら
命の循環を維持しているところがある


車の部品として製造されたネジも同じだ


ネジはネジであり車ではないけれど
実際に車の組み立てに使われ車の一部になる


車の一部に使われる想定が
ネジを
ただのネジではなく
「車のネジ」と呼ばれることになる


人前で話をすることは嫌で苦手なのだが
それでも
人前で立派に話さなくてはならない事態を迎えることがある


私には
感動的な話を流ちょうにできる
とは思いもしないのだけれど
それなりのことを
それなりには話したいと思う


しかし
実際に人前に立つと
想定されたそれなりの私を
私は演じようとするけれど
想定した自分を
いつも十分実施できない


でも
「話うまいじゃないか」などと
知人に評定してもらえると
人前で話す緊張と興奮が
少し落ち着く


話し終えた後
嘘でも
うまくいったと褒めてもらいたい心境になっている


「私自身は
 私の話の出来栄えとしては
 醜いアヒルの子のようだったと思っていても
 周りには美しい白鳥に見えていたのだ」
などと
ありもしないような奇妙な幻想を抱き
「うまく喋れた」
と自己肯定感を持ち
人前で話す作業をひとくくりできれば
心が落ち着く


私の意識は
私を想定しながら蠢いている


意識が想定する
未来や過去の私は
今の私ではなく
常に嘘の私であり
幻想の私だ


子供のころの私は
大人になれば
子供であることの制限から解放され
自由になれる自分を想定していた


大人になると
自分の立場の制限から解放され
自由になれる休日の自分を夢見て
休日には
だらだらと自堕落に過ごす自分を
楽しんだり
蔑んだりした


老いてくると
自分はまだまだ若いという
嘘と幻想に喜びながら
私の意識は
私に生きるようにと導いてくれている


想定されることと現実のギャップが
いつでも私について回っている


このギャプが導きとなり
花の種は花になり
車のネジは車になり
醜いアヒルの子は美しい白鳥となり
私は未来の私になる


念ずれば通ず


咲く花もあれば
咲かぬ花もある


たとえ咲かずとも
種は
芽を伸ばし
光を求め成長を続ける


未来は不確定のままに
想定された予定を実践へと導くために
踏襲されてきた循環が
様々な現象を制御しながら
予定と実践を繰り返す


私は自由を求めてきた
しかし
踏襲されてきた大きな循環の中から
自由になれずに
私を予定し
私を実践し続ける


人間であることを予定し
人間を実践し続ける


嘘と幻想の永遠を想定する人間として
私は私を実践し続ける

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