ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

思考と実体:五感と言語の関係について


言葉には
文字としての形と
発生の音とがある


形と音の関係は
言語圏で代々引き継がれているものであり
その関係性は経験的なものであって
言葉が生まれる前から運命づけれたものではなさそうである


さておき
人間には
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つの感覚がある


メジャーなものとしては
このうちの視覚と聴覚が言葉と結びついている


マイナーなものとしては
点字における触覚がある


手話における身振り手振りは
文字ではないものの
形に属する部類のものである


いずれにせよ
多様な表現を気軽にできる手段が
言語を発する側の手段として用いられている


このような手段の中で
発音や手話は一過性の表現であり保存がきかないのに対して
文字と点字は保存の効くものである


それぞれの特徴はともかく
人間は簡単な表現手段を好むようである


だからなのだろう
言語と関係がないのは味覚や臭覚である


人間には
味や臭いを
文字や発音のように表現する能力がないからだろう


人間にも
動物たちのように
臭いで個体識別をする能力があったのかもしれないが
仮にあったとしても
文字や発音の普及と共に
その必要性が低下し
臭いを出す能力も
臭いを識別する能力も劣化してきたと考えるのが
わかりやすい考え方である


効率的であり恣意的だからである


体臭は容易に変えることはできないように生まれてくる


だから
変えることが出来ない


変えることが出来ないから
広がりがない


表現の多様性が制限されているということである


体臭は生命活動に強く関連した表現であるのに対して
言語活動は生命活動と関連しているものの
生命活動から自由なところがある


生命活動と言語には恣意的関係性があるので
自殺を勧めるような言葉も存在できてしまう


人間の世界に極悪非道の鬼が現れたのは
言葉が発達してからなのではないかと私は思う


生命活動ではなく
言語活動が人間性を創造するようになってからではないかと
私は思う


好き嫌いはあるけれど
嫌いを徹底的に排除するには至らないのが
生命活動であると思う


なぜなら
他者への強い干渉は
言語世界がもたらしたものだと思うからである


好き嫌いは生命活動的で
その透徹をもたらすことが理性的活動であると思うからである


いくら良いことでも
ほどほどにしないといけないのは
人間も命だからなのだろう


地球もかわいそうである

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