ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

感情と思考:実践の記憶が論理を開く


自分の痛いのはよくわかるのに
人の痛いはわからない


ただ
人の痛いのは
状況と自分の経験から想像するだけである


この想像は
思考の一種だろう


私は
私が痛みAを感じている時の状況Bを記憶している


彼が未知の痛みCを感じている時の状況Dは
私の記憶の中の状況Bとほぼ一致している
よって
彼の感じている未知の痛みCは
私が記憶している痛みAに違いない


同じような思考により
失恋の痛みを想像したり
寝ながらうなされている姿から
悪夢を見ているに違いないと想像したりする


猫の足を踏むを
猫はギャという声を立て逃げてゆく
その姿を見て
猫も痛いだろうと想像するのも
こうした思考によるものである


ところが
自分は猫でないので
どんな痛みかはわからない


わからないながら
自分が足を踏まれた時の痛みを
猫も感じていると想像している


こうした痛みは「痛み」なのである


「痛み」という言葉には実践的な痛みはなく
記号化された痛みである


猫の痛みだけではない
人様の痛みもまた「痛み」である


だから論理の対象となるのだろう


記号化された記憶なので永続性がある
だから論理の対象となるのである


記憶は永続的で
実践は断続的である


論理は永続的な存在であるので
実践的痛みとは相いれないところがある


記憶となった痛みは
論理との相性がよい


私の痛みの記憶も
他人の痛みも
猫の痛みも
「痛み」として論理的に処理され
想像が成立しているということである


記憶としての痛みがなければ
他人の痛みは
想像すらできないだろう


実践の記憶が
論理を可能にしているということである


春の日の縁側で
日向ぼっこをしている猫が目を細めている


それを眺め
その横に寝そべり
一緒に日向ぼっこをしたくなるのにも
一連の論理が思考されているに違いない


感情と思考は
仲睦まじい様子で意識の中を徘徊している

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