言葉は
その対象と同一なものとみなされることにより
成立している
視覚も
その対象と同一なものとみなされることにより
成立している
この2つの同一化の擬制により
見られている太陽と
「太陽」という言葉が同一なものとみなされる
外に在る太陽=意識の中に在る太陽
意識の中に在る太陽=太陽という言葉
よって
外に在る太陽=太陽という言葉
この演繹は
意識を仲介として成立している
逆に言えば
意識な機能していない状態では
外に在る太陽=太陽という言葉
という同一化擬制は成立しないのである
ギラギラ輝く本物の太陽が
言葉であろうはずはない
それを
意識が
同一なものとして扱うのである
beの鎖がつなげるのである
太陽は熱い
熱いは温泉
よって
太陽は温泉である
こんなおかしな論理のように
意識が
本物の太陽を
太陽という文字と同一にしているのである
このおかしな論理式を
本物の論理式とすることで
言語は成立している
目に見えている太陽は
あくまでも
目に見えている態様であって
本物の太陽ではないことを忘れ
本物の太陽と思い込んで眺めている
このような幻想において
言語も成立しているということである
視覚がとらえているのは
光だけなのである
太陽そのものをとらえてはいないのである
それでも
それが太陽である
中身がない太陽を眺め
全ての太陽を眺めているようなものである
この中身を充実させようと
太陽をいろいろな角度から観察し
その観察を記録し考察し
太陽という文字に
さらに言葉を尽くし本物の太陽に近づけようと
科学的な努力が重ねらているが
いくら文字を重ねても
太陽にはならない
文字は文字である
それでも
私には
私の意識の中の太陽しかない
視覚や文字であらわされた太陽である
そんな同一物として擬制された太陽にしか
私はたどり着かないのである
空即是色であり
存在は同一化擬制の賜物ということになる