ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

トリプルワールド92


身体内部の反応のほとんどが
自作自演の刺激と反応であるのに対して
身体の外部の反応は
自作自演というわけにはいかない


自作自演でないから
外部とのやり取りということなのですが、、、


それでも
たとえば言葉の世界ということで考えてみると
身体の外部で繰り広げられている言葉も
共通の言葉でなければやり取りにはならない
ということは
言葉の世界を基準にすれば
自作自演の刺激と反応ということになる


これは
身体の外部に言葉の世界が広がっているからであり
この言葉の世界の広がりの内部で
自作自演の刺激と反応が繰り広げている


このように
外部と内部の区別は主題に応じで相対的になり
身体世界の外部に
言語世界の内部領域が広がっている


だから
身体の内部の生命現象も
身体の外部の言語現象も
世界の内部にある自作自演の刺激と反応ということになる


この二つの現象には
身体の外部で起こる現象か
内部に起こる現象かという違いもあるが
その純粋性や密度に違いがある


身体の内部では
ひとつの身体の制御により
そのほとんどの現象が制御されているのに対して
身体の外部で展開している言語現象は
言語世界のみならず
その他の世界に混濁している


たとえば
言語世界の内部領域には
言葉になる音の他に
鳥の鳴き声や
虫の鳴き声
風の音
雨の音など
様々な音が混濁している


そんな喧噪の中で
言語世界が展開している


身体内部の現象の方が排他性が強く純粋で
言語の現象は
他の現象と共存的で不純という評価もでる


世界の純度が
身体内で高く
身体外で低いということになる


多様性を認める世界な中に
言語は根を張っているようだ


だから
全体主義的に考えると
統制を強要したくなるのだろう


こう考えてゆくと
意識はとても面白い存在で
言語を操るだけあって
かなり多様性に富み
雑多な本性も持ち合わせている


だから
純度の低い雑念を泳ぐこともあれば
全体主義的に
純度の高い理性の壁の内側で泳ぐこともある


私の感覚なのかもしれないが
理性的に
どんなに純粋になろうとあがいても
身体の外部に開かれているからなのだろう
外部からの汚れが入り込み
意識には純度の低さが付いて回ってしまう


意識は不純で困ることがある


それも楽しみなのだから
仕方がないことなのだろう。。。

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