ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

能動的反応:能動態と受動態


整体師の叔母がいた


整体師なので
人様の体を整える技術に長けていたけれど
自分自身の身体を整える技術ではないので
自分が整体師であることを隠しながら
別の整体師さんの施術を受けていた


施術を受けながら
「そこではない
 もう少し上のところを
 もう少し外側に向けた角度でも少し強く、、、」などと
頭の中に描いてしまい
物足りなさが残ってしまうと云っていた


技術には
技術を実践する主体と
実践される客体がある


自分で自分の身体を整える
整体トレーニングの場合には
客体も主体で自分あるが
他者の身体を整える整体の技術は
客体と主体は完全に分離している
だから
整体の技術は
主体のものであり
客体には不要な知識であり技術ということになる


叔母は
整体をする主体としての知識があったので
整体を受ける客体になり切れなかった
それでも
整体師の身分を隠し
別の整体師を訪ね整体を受けていた


きっと
整体の客体となる良さもよくわかっていたからだろう


主体になるのか
客体になるのかで
随分と立場が違う


支配する
支配されるという動詞では
支配する方がお得な気がするけれど
施術する
施術されるという動詞では
整体の施術を受ける受け身の側の方が
よっぽどお得だ


猫は前足や後ろ足を伸ばしたり
背中を伸ばしたりしながら
自分で自分の身体を整えている


整体の主体も客体も自分でやってのける自己完結の世界の中だ


そうした世界にいれば
孤独に苛まれずに過ごすことができるのだろう


逆に言えば
受動や能動の動詞を
たくさん頭に描きながら生きているから
孤独を怖がるようになるのだろう


自分でやっちゃえればいいのだけれど
人任せなことが多い分業世界の中で
赤子が泣くように
孤独を憂うのは
人間の宿命なのだろうか?


能動態や
受動態の言葉を使わずに過ごせたら
平穏な心になれるのかもしれない、、、、


慣れるまで
使い慣れた言葉を使えなくて
イライラばかりするのだろうけれど
慣れれば
素晴らしい世界が広がるかもしれない???


しかしである、、、
言葉の使用を拒否する人間は
人間と言えるだろうか?

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