ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

持続性:物の動きと時間の動き


物体が動くのを見れるのだから
時間の動きも見れているのだろうか?


時間の速さが変わることを見れていないので
時間の動きは見れないのかもしれない


 物体は
 早く動いていたり
 遅く動いていたりするけれど
 時間は
 見ている範囲で同じように過ぎている


 私は
 時間と一緒に動いているから
 時間の速さを見ることができず
 私の見ている物体はとはいっしょに動いていないから
 その物体の速さを見ることができる


 だから
 物体は早く動いたり遅く動いたりと見えているけれど
 時間は動いていないようにしか見えない


私が見ている限り
私とともに動いている時間は動いていないというのが
相対性理論なのかもしれない


仮に
私の目が
過去にも未来にも同時にあり
時間の流れを観察できれば
私の目にも時間の動きが見えるのだろう


けれど
私の目は今にしかない


その今が持続している間に
物の動きが動くと
今の中で
物が動く


その動くものを
今を持続している目が眺めている


私の目が今を持続している間に
物体が動いているから
物体が動くのが見えている


物体と一緒に私の目が動いたら
物体は動くことは無いのだ


たとえば
目にゴミがついてそれを見えると仮定する
目を動かしてもそのゴミは動かないままだが
目の外から見れば
そのゴミは動いている


目が基準になって
他の存在を動いているかどうか判断している


私の目が持続して
定点としての基準となって
しかも
時間の流れに乗って流れているから
変わりゆく世界が見えている


だから
私の目が持続しなくなった時
私の目は時の流れに乗れなくなり
目に映るものは動きを止め
光もその動きを止めてしまうのだろう


きっと
動かない光は存在しないかのように
見えるのだろう


その時
存在し続ける他者の目は
私の目を変わりゆくものとして眺めることができるに違いない


私の目は
私の目についたゴミのように
動かずに存在しているということだ


時間の流れの中で
動かずジッと維持されいるということだ


私の目は時間を見れない


その代わりに
目に映るものの動きから
時間の動きを考察できる


私の目は
私の目に映る対象無くしては
時間を知覚できないということだ


目を閉じると
視覚の世界の時間が止まるかのように感じることもできる


目を閉じて
耳を閉じ
身体を硬直させ
思考も止めれば
時間は動いていないかのように過ぎてゆくのだろう


眠っていると
あっという間に
朝が訪れる

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