ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

脱中心化:言葉による中心化


言葉は帰納法の権化だ


言葉は
しばしば繰り返される存在を
指し示す役割を負っている
そして
帰納すべき場所として
認識の中心を形成している


こうして
繰り返しが機能してゆく場所において
言葉は
その存在の典型的な様相を暗示している


その言葉の中心へと
昨日の雨も
今日の雨も
予想される明日の雨も
「雨」として吸引されてゆく


一期一会であるはずの雨も
「雨」という言葉の中心へと意識が流し込んでゆくのだ


だから
「雨」という言葉には
過去に経験したすべての雨の記憶がまとわりついており
純粋な今降っている実体としての雨とは異なる意味が紛れ込んでいる


そのために
「今日の雨は小降りで雨粒も小さい」
などと
様々な形容詞をなどで飾り立て
少しでも今の実体に沿った言葉を選びだそうと努力することになる


しかしながら
これらの形容詞も
過去の経験を背負った記憶の中心化した存在であり
今の雨粒の数や大きさを実直に反映したものではない


このことは
「雨」という客観的知覚対象でも
「人間」という客観的かつ主観的知覚対象でも同じだ


「私は人間である」
この文章は
私を「人間」という言葉の中心へと誘っている
それが
「私は人間であるが
 それ以前に私は私である」
となると
私を「人間」と認めつつも
私に「私」という形容詞の集合のような飾りをつけ
私を「人間」の中心から「私」へと中心をずらそうと試みている


この「人間」から「私」に戻ろうとする意識のなかにある「私」は
私の過去の全てを包括しようとする不敵な「私」であり
意識としては把握しきれていない「私」である


そんな「私」が
帰納法により「私」に中心化されている


何も語れていない「私」でありながら
私の意識としてはすべてを語っているように思えてしまう


そんな言葉の魔術の中で
「私」は「私」を維持すべく
今日も「私」を中心に据えて
実体としての私を演じている

×

非ログインユーザーとして返信する