ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

同一性:生命は物まね太郎だ


『私の城下町』の歌詞のなかに
「好きだとも言えずに、、、」というのがある


好きな人に
素直に好きですとなかなか言えない心理は
万人に共通しているようだ


「好きです」と言いたい気持ちと
「好きです」と言えない気持ちがせめぎ合い
言えない気持ちにの方に傾くと
このせめぎあいの波は静かに収まり
言いたい気持ちの方に傾くと
どんどんせめぎあいの波は大きくなってゆく


こうした状況を車の運転に喩えると
このせめぎあいの波は
「好きです」と言いたい気持ちが
主導権を握っているアクセル役で
「好きです」と言いたくない気持ちは
ブレーキ役のようだ


では
「このアクセルやブレーキを
 踏んだり離したりしている張本人は誰か?」
というところに興味がそそられてくる
意識の主催者たる人間には違いがないのだろうけれど
「好き」を意識している意識は
アクセルやブレーキを操作しきれていないから
「好きだとも言えずに、、、」
という意識が生まれてくるのだろう


こう思うと
意識はただ
操作されたアクセルやブレーキの結果が
映し出されるスクリーンに思えてくる


むろん
意識が主体になって
そのスクリーンに映るものを操作することもあるのだろうけれど
大方の意識は
意識の外からやって来る外来の写し物に思えてくるということだ


湧き上がる感情や
抗いがたい本能といった
個体内部に由来する写し物と
言葉や知覚がもたらす
個体外部に由来する写し物が
意識の中で
混濁したり
整頓されたりしているようだ


こんな写し物がはびこる意識の世界を
私の世界と感じ
私が存在している


DNAが維持する写し物の世界の中で
生命が躍動し
意識が維持する写し物の世界の中で
文化が躍動しているのだ


私は
繰り返し繰り返し
何かを上手に写し取り
それが自分の物であると思えるようになるまで
何回も写し取り
自分を築いてきた


これからもそれしかできないだろう


言葉を覚え
常識を覚え
自分のものにして来た


生命は物まね太郎だ
人生も同じだ


物まねを重ね
自分らしさを醸成するのだ


これができるということが素晴らしい能力だ


そう
それで充分だ

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