ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

再現競争:痛みや手足の私への専属性


痛みの知覚は
私を襲う存在だ


歩いているとき
氷の上で滑り転んでしまうと
腰を打って痛みに襲われたりする


ここで
痛みと私の関係性を考えてみたい


痛みは私であるのか?
私ではないのか?


痛みは私を襲う存在である限り
私と対峙する私とは別の存在である


しかし
痛みは
私以外の他者には
私の痛みは知覚できない


このような意味で
痛みは私の手足と似たような存在だ


私の意識と私の手足は
どちらも私と認識できるし
それぞれ別の存在としても認識もできる


それに
手足も痛みも生きているのに役に立っている


手足がなければ
食事をとるのも大変になるし
痛みがなければ
危険を知り注意することができなくなりそうだ


私は
様々な部品の総体であるということだ


様々な部品が
それぞれの役割を全うしていて
私が私として再現され続けている


このように考えていると
私の手足や痛みは
私だけのものであり
だから私に専属している
しかし
私の手足は
他人のために働くこともできるし
私の痛みも
他人のために働くこともある


ということで
どこまでが私で
どこからが私でないのかは
わかっているようで
よくわからないところがある


これは
私が開放系として存在しているにちがいない


食事をするし
呼吸もする
すれば
物質的な交流が私とその周辺に存在していことになる


言葉を吐くし
言葉を聞き取る
すれば
情報的な交流が私とその周辺に存在していることになる


ただ表皮に囲まれた私の肉体は
外部と関係において
一定以上に開放性が低められている
だから
この範囲の中の出来事は
私の専属性が高いように考えられやすい
けれど
完璧に外部への開放性が遮断されていないから
私は
私として再現するための栄養を吸い取り
私として再現するために妨げになるものを
外部へと放り出して成立している


私は外部を求めている


その証なのだろう
愛は前へ前へと歩を進め
手は外へ外へと延びてゆく


思考も
留まってばかりはいられない


開放され
打ちのめされ
淘汰選択の洗礼を受けなければ
磨かれることはないだろう


痛みも
私の一部であるのだから仕方がない

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