ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

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自作因果律:推しの渦としての正義論


西城秀樹さんの「情熱の嵐」が好きだった


♬ 君が望むなら
  たとえ火の中も
  恋のためなら恐れはしない
  情熱の嵐よ
   
昔は「ファン」といっていたが
今は「推し」というようだ


自分が楽しむだけでなく
その楽しみを他者にも推して
一緒に楽しむことで
より大きな喜びに変えてゆく


ファンクラブは
昔からのそのような場所だった


推し合い圧し合い
熱気に包まれた
そして
熱気が熱気を呼び
ますます推し活が盛んになり
「推し」の魅力の根源が語り合われたりする


会社を辞め
身近にプロ野球の話をする人がいなくなった時
私の野球熱は冷めた


子供のころ
暇さえあれば捕虫網をもって山に出かけたが
一緒に虫を探す友人が少なくなるにつれ
山に出かけることもなくなった


その頃の情熱を求めて
山に入り
虫を探したりしてみるのだが
あのころのような情熱は湧き上がらない


同じ話題を共有する人を恋しがっているのだろう


テレビニュースや新聞
ネットでの話題をチェックして
当たり障りのない話題を頭に詰め込んで
いっぱしの社会人のようなふりをして
世間を泳ぐ


そんな世間とのお付き合いの中で
醸造される善悪の基準を「推し」ながら
世間はで意義を自作自演しているのだろう


正義は推し活の賜物というわけだ


それぞれの「推し」の根拠を語り合い
それを共有し
「推し」の輪を広める


それが正義論だ


それぞれの推し活に
それぞれの権威が生まれ
その権威の意向で
「推し」の何たるかも
大きく影響されてゆく


私は
私が帰属する渦巻く推し活に振り回されながら
私の主観として存在する私の動くことのない自由精神すら
動かされ
揺さぶられ続けているようだ


それが人間の本懐でもあるのだろう


そして
いつの日か
情熱の嵐からふと抜け出して
かつて
なぜあんなにも情熱をもって推し活できたのか
懐かしく思い出すこともあるのだろう


誰かが望むなら
たとえ火の中も恐れはしない
そんな情熱の嵐が
私の心の中にも
意識せぬままに
いつのまにか
入り込んでいるのかもしれない

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