ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

触媒と必然:調和を導く触媒たち


投げられたボールが
放物線を描いて落下する


この時
ボールは物質であり
放物線は運動の軌跡として取り扱われる


注目したいのは
ボールの内部の
電子の動きはないものとして扱われる
ということだ


物質は
時間経過があっても動かない存在と
認識されている


しかし
先程のボールにしても
私の手にしても
構成している物質は
すべて分子であり原子であり
素粒子であるので
動き回っているはずだ


人間の目には
動いていないように見えるように
動いているのだ


大きすぎても
小さすぎても
早すぎても
遅すぎても
人間の目には
動きとしてとらえられないことが
山ほどあるだろう


投げられたボールの放物線は
空気に描かれるのだが
空気は何もないかのように取り扱われたりする


ボールに比べたら
空気は圧倒的に目には見えにくいのだから仕方がない


日常の感覚は
人間の触媒としての性能に左右されている


その感覚に慣れる中で
動いていても動かない存在や
見えないが存在するものが
言葉と共に人間意識に遡上してきた


物質が動かない塊であるというのは
そんな人間の幻想だ


物質に吸収された光は
物質になる


そして
物質から放出された光は
物質ではなくなる


はたして
光あるいは物質と
言葉として区別されるほどに
光と物質の間に
隔絶とした違いがあるのだろうか?


空気と人間にも
光と物質のような関係がある


私の一部は
かつて空気として
私の周りで浮遊していたに違いにない


「私の身体」という言葉は
実物の私と違い
呼吸をしない


「私の身体」という言葉に呼吸をさせるには
「私の身体」+「は」+「呼吸をしている」と
言葉を連ね
「私の身体は呼吸をしている」
としなければならない


様々言葉が連なり
私が生き生きとしたものになる様に
私の身体も
様々な機能がつらない生き生きと活動できている


そして
生身の私の身体と
言葉としての私の身体が
どこかで触れ合いながら
調和を奏でている


人間の触媒機能が
言葉と物質を調和させ連ねているようだ


空気をも
光をも
調和させながら連ねているようだ


このような調和の中で
さも必然であるかのように
物質は不動なものとなり
空気はいつの間にやら身体に成りすます

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