ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

局在と遷移:知覚できないもの対しては 沈黙しなければならない


樹木は
春を検知して
花を咲かせ
秋を検知して
葉を落としたりする


春という状態や
秋という状態は
植物に反応される客体だ


四季のある気候に適した植物の多くは
乾燥が続く環境では生きられまい


逆に
冬のない温かな気候に適した植物の多くは
冬の寒さにやられてしまうだろう


それぞれに想定している環境にしか
対応できない


反応して対応することと
反応して知覚することは
別の事象だ


知覚せずして対応していることもあるし
知覚しても対応できないこともある


植物が環境を
知覚しているか否かは
よく判らないが
植物が環境に
対応できているかどうかは
生きているかどうかを見れば
知ることができる


よく判らないというのが実際であるが
植物は環境の変化を知覚するのだろうか?


知覚するという事を
どのように定義するかによっても
答えは違ってくるのだろう
だから
よく判らないのだ


人間の知覚のように
そのことを知ることと
そのことに対応することが別の現象ととらえられることを
知覚と言えば
植物には知覚はないのかもしれないが
そのことを知らなければ対応できないのだから
対応できるという事は知覚しているという事だと考えれば
植物も知覚能力があることになる


対応できることは知覚しているという事になれば
環境に適応している生命は
総じて環境を知覚しているという事になる


細菌も
ウイルスも
何かを知覚しているのだ


ただ
全てを知覚してるわけではない


人間も
生身の状態では
放射能や紫外線それに超音波は知覚できない


もっともっと知覚できない存在が世界にはあるのだろう


知覚できないもの対しては
沈黙しなければならないのだから
どんな手角できない存在があるのかは
記載できないが
もっともっと未知な存在があるに違いない


そんな道の存在に対しては
実践的な対応をすることができないし
ただ祈るのみである


植物に祈ることができるのかは
よく判らないけれど
想定外の環境に出くわして対処不能に陥れば
対処できるような反応可能な環境に戻ることを
ただ祈ることしかできぬのだろう


人間は
万能ではないけれど
そんな植物の苦境を知り
助けることができる能力を持っている


知覚するという事と
対応するという事を
別途実践できるがゆえにできる能力だ


対応は
局在した存在が実践することであるから
植物のことは
植物にしかできない


知覚は
植物のことも
人間ができるのだ


水が足りずにしおれた植物を見ると
水が足りないと知覚でき
情路に水を汲みその植物に水をかけてやることができる


この水やりは
人間の対応であり
植物の対応ではない


知覚と対応が分離しているから
利他的な対応が可能となっているという事だ


他者に苦境を知り
同情し優しく対応することもできるし
他者の優越を知り
嫉妬し攻撃的に対応することもできる


ともすれば
知らぬふりを決め込んで
何もせずにいることもできるのだろうし
本当に知らぬままに
何もせずに過ごすこともあるのだろう

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