ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

副次的定義の実践の連鎖のなかで


自己ー非自己の認識は
生きる基本だ


この手は自分のものだとか
この足もそうだとか
指も口も鼻も自分のだ
そんな風になんとなく
自分の範囲を直感的に意識している


単細胞生物の大腸菌も
餌は消化するけれど
自分自身の維持に必要な細胞内小器官は
消化しないでいる


ちゃんと
自己と非自己を認識している、、、らしい


ということで
大腸菌もちゃんと
消化すべきでない存在としての自己と
消化すべき存在としての非自己を定義している
そして
それを実践している


この定義の正当性は
自己の生命を維持するために
有益か否かで決まっている目的論的定義であり
目的達成のために実践される
手段としての定義だ


いってみれば副次的な正当性だ


生きることを主目的とした副次的正当性として
自己と非自己が定義されている


人間の意識がしている自己非自己の定義も
このような副次的なものだ


このような
副次的な正当性がたくさん積み重なって
生命現象が成立している


いうなれば
生命現象は
多種多様な副次的定義の実践の場だ


このような連鎖の中にあって
何かが否定されると
そこからドミノ倒しのように
副次的正当性の改編の流れが拡がってゆく


生命の進化は
このような場面で
急ぎ足で進んできたのだろう


現在
社会にウイルスが入り込み
急速に
人と人の接触が否定されるようになってきた


社会の進化が大きく促されている局面だ


アフターコロナ


どんな社会が表れてくるのだろう
不安と期待が入り混じる


社会の目的は
社会の存続であって
社会にい暮らす人々の幸せは
優先順位が高いとされているが
副次的なものだろう


個人の幸せは少なくとも
社会の幸が多ければ
社会として成り立ってしまうから
いろいろな国があり
いろいろな暮らしが存在している


私の中に納まっている肝臓は
幸せを感じてくれているのだろうか?
社会が個人を見守ろう様に
私は内臓を見守らなければならないだろう

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