ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:シュミレーターとしての言葉


「オオカミが来た」
という言葉に反応して
山とは逆の方向に逃げる


この行動は
言葉により誘導されたものであるが
その背景には
「オオカミは山に棲む」
という知識
「オオカミは恐ろしいもので
 襲われないように
 距離をとらなければならない」
という知識がある


このような知識は
「オオカミが来た」という言葉とは
別個に存在し
「オオカミが来た」という言葉が
思い起こさせる知識である


「青い鳥が来た」という言葉は
「オオカミが来た」とは別の知識を思い起こさせる


言葉は特定の知識を誘導し
誘導されて知識に応じた行動を呼び覚ます


イソップ童話「オオカミと少年」があらわすように
言葉は現実ではなくても
現実で起こったのと同じ知識を誘導し
現実で起こったのと同じ行動を呼び覚ます


このような効果から
言葉は
現実のシュミレーターと呼ぶことが出来よう


シュミレーターは
起こりうることを想定できればできるほど
高性能であり
起こりうることを想定しえないものだと
低性能ということになる


言葉が
身近な現実ほどに充実して取り揃えられているのは
こうしたシュミレーターの性質からだろう


専門分野の事象を表現する言葉が
一般の人々の日常会話から遠ざかるのも
こうしたシュミレーターとしての性質からだろう


シュミレーターの価値は
何を模造しているかによるのである


言葉の価値
もっと言えば
知識の価値は
何を模造しているかにより決まるということになる


言葉や知識が
模造の楼閣を形成している


知を愛することは
この楼閣を磨き崇めることなのだろう

生命と反応:楼閣に棲む資格としての能力


私が生まれた時には
すでに
言葉の楼閣がそびえ立っていたらしい


私は生まれ時
オギャーと叫び
この楼閣の住人にさせられたのだ


フンギャーとか
ウォングアーとかと叫べば
もしかした
違う楼閣の住人にさせられたのかもしれない


私は
オギャーの楼閣に入れたようだ


そして
いつしか
猫はニャーと鳴き
犬はワンと鳴くことを覚えた


この楼閣で暮らしていると
耳には
この楼閣の掟が刷り込まれ
掟に従わない音は聞き取りにくなり
口や喉にも
この楼閣の掟が刷り込まれ
掟に従わない音を発音しにくくなる


だから
私には
小鳥たちの会話がわからない
ゆえに
小鳥たちの作る言葉の楼閣には入れない
ましてや
小鳥たちの作る言葉の楼閣を
守り育てることはできない


私は生まれ落ちたこの楼閣に入り
この楼閣を守り育てている


オギャーと叫び
ニャーと鳴き
ワンと鳴くこの言葉の楼閣で
ヘビをヘビと呼び
「あっちへ行け」と声をかけたりする


首尾よくヘビが逃げてゆけばよいけれど
ヘビが逃げずに道の真ん中で寝そべっていれば
言葉を理解しないヘビを無能呼ばわりし
言葉の無能を擁護する


言葉の楼閣に棲む者には
言葉を理解しない者はみな無能な者だ


理解する者は有能で
理解しない者は無能である


私には
小鳥の言葉がわからない


小鳥からすれば
私は無能なヘビの様な存在だ


小鳥たちに
チュンチュンと小馬鹿にされてたとしても
かわいらしい小鳥の声に
微笑み返す

生命と反応:言葉の中の意義と自由な孤独


言葉が人を動かすと
人が言葉を使いだす
そうして
人が言葉を使うほどに
人が益々言葉に忠実になってゆく


この言葉と人の円環の中で
言葉と言葉は連なり
人と人が連なってゆく


体の中にも
たくさんの言葉が蠢いて
心臓と肝臓がおしゃべりしているのだろう


だから
心臓と肝臓は連なっている


心臓は
拍動する意義を
そんな言葉の中で感じているだろう


肝臓も
栄養を蓄え
不要物を分解する意義を
そんな言葉の中で感じているだろう


そんな言葉から
取り出された心臓や
そんな言葉から
切り離された肝臓は
存在意義を見失う他ないだろう


試験管の中で
心臓や肝臓が栄養を与えられ
生き永らえたとしても
彼らは孤独に違いない


体の中に蠢く言葉を受け取るように
生まれつき備わり
そんな言葉を受け取りながら
育ってきたに違いない


それとも
言葉から解放され
試験管の中で
自由を謳歌するだろうか?