ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

言葉のバブル


言葉にはたくさんの意味がある


辞書を引けば
ひとつの言葉に
沢山の意味が掲載されているし
同じ意味を顕す言葉も複数存在する


だから
それぞれの言葉の意味を
文脈の中で理解することになるし
意味をはき違えることにもなりかねない



「法律は自由を保障している」
「法律は自由を規制している」


この二つの文は
どちらも法律と自由の関係を表している
どちらも正しいと思えるが
相互に矛盾している


AとBの関係はCであり
かつ
AとBの関係はDであり
かつ
CとDは相反する、、、からだ


表面的には
保障と制限は真逆の関係にあるから
矛盾を含有している
しかし
「法律は自由を保障している」とばかり考えて
法律をたくさん積み重ねると
不自由な事態に遭遇することになるし
「法律は自由を制限している」とばかり考えて
法律をすくなくしていっても
なんだか不自由な事態に遭遇することになりかねない


だから
現実的には
「法律は自由を保障している」
「法律は自由を規制している」
この2つを両立させながら法律が
運用されていると考えるのが妥当だ



言葉も文章も
どんなに尽くしても
曖昧さを残し続ける


このような曖昧さがあるために
多様な意味も生まれてくる
それを防ごうと
言葉をつけ足してゆくと
文章がどんどん長くなる


文章は
バブルのように膨らむのだ


膨らんで
文章ばかりが尊重され
その実践がおろそかになり始めると
だれかれとなくその膨大な文章を無視し始め
バブルは萎んでゆくのでしょう


曖昧なままでも
実践に支障がでなければ
文章の基本的に機能できるのです


人間は考える葦ではあるけれど
考えてばかりでは
何も考えていないのと同じになってしまう


考えてばかりで
景色を眺め
風に吹かれることがなくなれば
文章は
現実への参照先を失い
妄想のバブルを膨らめかねない


布団を干すように
文章を陽の光にあてて
風に晒し
妄想の虫を追い払わなければ
文章もかび臭くなるのだろう


昔の文章を
今の言語の光を当てなければ
昔の文書が運んでいた曖昧な意味が
亡霊となって現れてくるのだろう

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