ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

恒常的状態:破壊をもたらす自然と人間


「赤信号みんなで渡れば怖くない」
というブラックユーモアがある


このブラックユーモアと同じ構文で
「新型コロナみんなで罹れば怖くない」
という文章を創ることができるが
ブラックなだけでユーモアがない


なぜか・・・
  急いでいる時の「赤信号」は敵である
  この敵に立ち向かう術として
  みんなで渡り車を止めるから面白いのだけれど
  「新型コロナ」という敵に対して
  みんなで罹っても何の解決も与えてないから
  面白味や爽快感は生まれない


ただ
「新型コロナみんなで罹れば怖くない」という言葉にも
コロナ狩りをする人々を敵として想定することができる


コロナ狩りの被害者にとっては
みんながコロナに罹患すれば
コロナ狩りをする人がいなくなるので
ありがたい状況だ


「人間の敵は人間」という言葉がある


赤信号をみんなで渡る場合も
コロナにみんなで罹る場合も
やっつけることができるのは人間だ


人間という敵に対してどう対処するかを
人文科学が研究している


「新型コロナ」の悪役は生き物だから
人間心理をくすぐるような人文的な言葉では
ごまかすだけで
根本的な解決にはつながらない


自然科学のしっかりとした裏付けのある解決策が望まれる


政治は
「人の敵は人」という世界であり
政治だけで全てを解決できない


まだまだ
自然は人間の最大の脅威であるのだろう


ただ
普段「人の敵は人」という世界に慣れ親しみ
争いを言葉で解決する思考に慣れてしまうと
いざ自然の脅威にさらされと時に
「こんなはずではなかった」と嘆くことになる



人を制することも
自然を制することも
どちらも大変難しいことには違いない


「どんな毒キノコでも一度は食べることができる」という


人は一度は死ななければならないらしいけれど
死ぬのは一度だけでよいらしい


遠い将来
人類も一度は絶滅できることだろう


でも
そうならないうちは
ブラックユーモアを愉しみ
人智を尽くしながら
様々な工夫を凝らすことができる


毒キノコか?
毒キノコでないか?を調べるのは
自然科学の分野だけれど
そのキノコを始めに食べるのは誰か?は
人文科学の分野の仕事になる


人智の成果としての
言葉の檻に入れられて
毒キノコを食べたり
毒杯をあおるような事態に陥り
「こんなはずではなかった」と嘆く人が
一人もいなくなれば
人類の至宝の成果となるだろう



コロナ禍のなか
コロナを巡り
人間同士が
協力したり
争ったりしている


できることをすることしか
できない


できることをしないこともできるのだろうけれど
できることはできるだけしながら
禍が過ぎ去ることを待ち望みたい

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