予定と実践:正義の起源
生のCDと
音楽が録音されたCDには違いがある
しかその違いは微妙なもので
見た目にはわからない
むろん
触っても
わからない
そんな微細な違いが
CDプレイヤーによって
様々な音として現れる
このような
CD上の微細な物理的な形状の違いと
音との関係は
きっちりと予定されており
その予定に従い
音が
CDに書き込まれたり
CDから再生されたりする
CDの物理形状と
音の関係に誤りが生じると
予定されていた正しい音が再現されず
誤った音が実践として現れてくる
予定通りであると
正しく
予定通りではないと
誤りなのだ
予定されている規格通りの製品は合格で
規格から外れた製品は不良品だ
*
正義の起源に
予定と実践の分離がありそうだ
ただある様にある存在には
正しいも誤りもない
こうあるべきだと指定されると
実践において
正しいや誤りが生まれてくる
そして
予定としてのそのこうあるべきだが
正しいのか誤りなのかは
実践可能性等において
正しいや誤りが生まれてくる
正しい予定と
正しい実践が
円環を描き
周期的現象となり持続すると
正誤はその円環において
洗練されてゆく
予定と実践の総和としての
円環の維持が
試され
生命活動の淘汰選択が進行している
数多くの致死遺伝子が知られている
発生の途上で発生が立ち行かなくなるような
遺伝的欠陥が数多く知られている
生命維持に不可欠な遺伝子がたくさんあるから
これらの遺伝子に不具合が生じている致死遺伝子も
たくさんあるのは当然のことだ
正しい遺伝子をそれぞれの組み合わせで
持ち合わせているから
生きていられるようだ
それぞれの正しいを積み重ね
それぞれの円環の中で
積み重ね
それぞれの系譜を維持し続けてきた
これからも
系統樹の枝先で
それぞれの正しさを熟成してゆくだろう
あるいは
その正しさが
通用しなくなり
その系譜を絶滅させてしまうのだろう
正義にも
系統樹があり
その正しさを
それぞれの枝先で熟成させているようだ
おそらく
この系統樹の太い幹には
詳細のない
総和的な正義が鎮座しているのだろう
具体的にどうするか?はさておき
生き抜こうとする意志が
総和的な正義を支えているのだろう
俺が生き抜くのか
家族が生き抜くのか
民族が生き抜くのか
人類が生き抜くのか
生命が生き抜くのか
様々な生き抜く方策を求め
正義が
それぞれの系統樹の枝先で
たくさんの正しさを
様々な組み合わせで試行錯誤しながら
生き永らえ
具体的な正義を実践し続けている
生きなければ正義も試せない
こを背景にながら
生きやすさや
生きづらさが
様々な正義を
後押ししたり
あるいは
蔑ろにしたりしながら
正義は遷移し続けているようだ