ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

現象学的井戸端会議


思考には
声に出さない文章という
側面がある


この文章は
思考の過程であるのか?
はたまた
思考の結果であるのか?


いずれにしても
思考の主体は
文章を作出しているようだ


鳥が
鳴き声を作出しているのと
同じ対応関係だ


ただ
思考の場合
空気に触れさせていないだけだ


空気に文章を記載する作業が
発声だ


少し戻ろう


思考する主体は
どこに文章を書いているのだろう


その文章は
空気に描かれた時のように
すぐに消えてしまうのだろうか?
それとも
紙に記載するように
永く存在するのだろうか?


記憶媒体の性能の問題だろう


記憶媒体と
思考の主体は
仲間らしい


でも
敵対もしているらしい


良い記憶や
悪い記憶だ


主体が
どのような記憶を引き出すのかを選択している
ようではある

悪い記憶が
大きな声で
思考の主体に話かけ
楽しく過ごしていた思考の主体の
気分を大いに害することもある


記憶も
思考の主体に
声をかけているようだ


記憶にも
思考の主体の側面がありそうだ


記憶も
声に出さない文章という側面を有しているからだろう


声に出さない文章が
どこかで
井戸端会議をしているのだろう


様々な「わたしたち」が
次々と現れては
とりとめのない話が続いてゆく


記憶は
思考の主体が
外部から仕入れてくる

舶来品のようなところがあって

整理された棚に並べられたりする


そんな舶来品同士が
井戸端会議をして
思考の主体は
それを眺めているようにも思えてくる


もしかしたら
話を打ち切り
その場から逃げ出したいと
考えているのかもしれない


ーーーーー
メモ


車を運転していて
目の前の信号が黄色に変わった瞬間に
「ブレーキを踏むべきである」という言葉と
「このまま交差点を抜ければ得だ」という言葉が
どこからともなく声もなく発声される


この二つの言葉が
大声で発生されている最中
思考の主体の自由は
このどちらかを選ぶことに限られ
他の言葉を選ぶには
この二つの言葉の音量を下げる必要がある


「大きな声の人が得をする
 そんな世の中でいいのか?」


こんな声はかき消されているのだ


わたしの中の
大きな声は
何処からきて
どんな声で
何処へ行くのだろう?


ゴーギャンの問いかけも
そうでかもしれないが
ムンクの『叫び』の声も
とても大きそうだ


絵としての存在ゆえに
どこまでも続いてゆく本質なのだろうか?
それとも
象徴に過ぎないのだろうか?


物質は媒体だ
何を運ぶ媒体化で
その価値が変る


見る人により
物質の価値が変るのだ


ありがとうございます

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