ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

言語は物まねの天才を希求する


日本語が外国語と出会うと
日本語としての使用方法に変わりはないままに
日本語と外国語の翻訳関係が形成される


この関係が増えるという状況は
未知の生き物と日本語が出会った時にも生じるが
この場合には
日本語の領域が増えるということになり
外国語との出会いとは
増える関係の質に違いがある

・・・・ようにおもえる


はたしてそうか?


日本語を主体としたとき
未知の言語と
未知の生き物に
どのような差を見出しているのだろうか?


未知は
既存の日本語が
その未知なるものと
関係を結んでいないことを意味する


未知の生き物にも
未知の言語にも
相応の命名がなされ
既存の日本語により
その未知なるものの説明を重ねてゆく作業が進展する


説明できるということで
次第に未知なるものが既知なるものに成長してゆく


対象が成長するのではない
対象を奇貨として
日本語が成長するのだ


逆に
日本語が対象となれば
日本語は成長の源になる


科学技術の発達は
このような方向による
規則性の外部移植だ


ーーーーーー
メモ


説明できるということは
対象に規則性があるということである


このような対象の規則性に従い
日本語においても規則性を再現してゆく


言語は物まねの天才だ


言語機能の根源にこのような
物まねの性質がある限り
言語活動は
物まねの応用ということになるだろう


上手な物まねもあれば
下手な物まねもあり
本物よりそれらしいものまで間で存在する


物まねをさらに物まねしたりする


規則性を再現する現場に
言語などの
情報は欠かせない


生命にはDNAが欠かせない


よりそれらしいDNAが
求められているということなのだろう


繰り返すことができる規則性
それが
よりそれらしさの指標であろう

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