ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

恒常的状態:存在の同一性


白い猫も
黒い猫も
鼠を捕る猫はいい猫だと云う


同じ文脈で考えれば
腹をすかせたオオカミも
腹を満たしたオオカミも
同じオオカミなのだけれど
腹をすかせたオオカミは餌をとるから
いいオオカミで
腹を満たしたオオカミは餌をとらないから
悪いオオカミということもできるのだろうが
被食者からして見れば
腹をすかせたオオカミは悪いオオカミで
腹を満たしたオオカミはそれほど悪くないオオカミだ


鼠たちからすれば
鼠を捕れない猫がいい猫だ



腹をすかせたライオンと
腹を満たしたライオンは同じ存在ではない


しかし同じ個体でも
腹を空かせている時も
腹を満たしている時もある


若いライオンと
年老いたライオンも同じ存在ではないけれど
年老いたライオンも
昔は若いライオンであった


オタマジャクシは
カエルであるのか?
それとも
カエルの子であるのか?


同じであるということはどういうことか?
これは
わかっているけれど
よくわからない問題なのかもしれない




セテウスの船が指し示すように
存在は
物質とだけ結びつくのではなく
状態とも結びついている


存在は
今だけではなく
過去の記憶と結びついているからなおさら複雑だ


先程の存在と
今の存在が
同じ物質からできていても
状態が違えば
別の存在になることもできる


物質だけが存在の基準であるならば
「過去」も「未来」も消失し
「今」がただ存在することになり
単純にはなるが
存在が織りなす思考の幅は
格段に狭まることになる



存在が存在者として認識されるためには
状態が一定時間維持される必要がある


台風も
竜巻も
一定時間恒常的な状態を維持しているから
単なる風ではなく
台風や
竜巻として存在している



今、私は
幼い私ではなく
年老いた私でもなく
年相応の私である


この年相応を維持しようと
意識的に
無意識的に
様々な能動的な反応が
身体内部で引き起こされているに違いない


死体になった私は
今の私とは違う存在だ


幼い私も
同じように
今の私とは違う存在に違いない


それでいて
同じ私と思えるのだから
思うということは
同一性を保持するうえでも
大切なことなのだろう


逆に言えば
思わなくなれば
同一性は消失する


同じ種類の花々も
同じ種類の草も
それぞれ別物として存在することになる


皆それぞれに時空を占有している別物だ


きっと
同一であるということは
思考空間の中で同一時空に押し込められているからに違いない


私の同一性は
この同一時空の檻の中で
自らにより監視されている


この監視から外れれば
私は私でないようになるのだろう

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