ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

脱中心化:除去により浮かび上がる意義


1から10まで数えられるようになると
数字の世界が機能し始める


この数字の配列から
たとえば「5」を排斥して
使用不可にすると
6-1や
4+1の答えが存在しなくなってしまう


「5」は
数字の等間隔性を保つために
どうしも必要な要素だ


四則演算のうち「+」が無くなっても大変だ
6から1を引いた後、再び6に戻せなくなってしまし
「×」や「÷」だけで数字を操作するとなると
比例の様な相対性ばかり計算することになってしまう


でも考えてみれば
そもそも
数字は相対的で
1㎝や1mといった長さの単位と併存していないと
大きさを表現できないし
一匹二匹といった数の単位と併存しないと
猫の数を数えているのか
猫の足の数を数えているのか
よくわからなくなる


要素命題は
体系を維持する為の意義を
それぞれが負っている


数字は等間隔を刻み
四則演算は数字の操作を可能とし
数字の単位は
現実の存在との対応を形成している


それぞれの人に
それぞれの顔があり名前がある


皆が同じ顔になり
同じ名前になると
平等になるのだけれど
不便も存在する


この不便に
同じ顔でない意義と
同じ名前でない意義が隠されている


皮膚の細胞一つ一つに名前はないけれど
五本の指には一つ一つ名前が刻まれている
親指
人差し指
中指
薬指
小指


牧場の牛には管理番号が付けられ
ペットの猫には名前があるのだけれど
スズメたちに名前はない


ある場合と
ない場合の比較において
その対象の意義が計ることができる


このようにして
思考の意義も
思考を止めれば明らかになるのだろう


思考を止めても
あるものはあり続け
無くなるものもある
そして
思考を始めれば
再び現れるものがある


思考が創る対応関係は
実に様々な影響を現実に投げかけている


思考は
思考対象同士のみならず
現実に対しても対応関係を迫っているということだ


視覚や聴覚がそうしてきたように
言語も現実への対応関係を推し進めて来た努力の結果と
いうことなのだろう

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